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1|イントロダクション:なぜ今ゼンガーを語るのか
「真実を刷る勇気」が、300年後の私たちの仕事観を変える。
1730年代のニューヨークは、まだイギリスの支配下にある植民地でした。その一角にある小さな印刷所で、ひとりの職人が活版機を動かしていました。名前は、ジョン・ピーター・ゼンガー。ドイツから移民として渡ってきた彼は、1733年11月5日、『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』を創刊します。
この新聞は、当時としては異例の政治批判を正面から取り上げ、多くの読者に注目されました。とくに紙面で厳しく批判されたのが、植民地総督ウィリアム・コスビーの政治姿勢です。やがてゼンガーは、「サディシャス・リベル(扇動的中傷)」という罪で訴追され、1734年11月17日に逮捕・投獄されました。
しかし、新聞の発行は止まりませんでした。印刷機を動かし続けたのは、妻のアンナ・ゼンガーです。獄中の夫から原稿を受け取り、活字を拾い、インキをのせ、手回しで紙を刷る。そのすべてを引き受けて、彼女は毎週の発行を守り抜きました。ふたりにとって、「印刷を止めることは、真実を止めること」だったのです。
この出来事は、遠い過去の事件ではありません。今日を生きる私たちにも、大切な問いを投げかけています。
たとえば、書き手が匿名でも、それを世に出す人には責任があるのか。権力を批判する記事を印刷・発信することに、どれだけの覚悟が必要なのか。そして、「刷る」という行為は、単なる出力作業ではなく、社会に対する意志表示なのではないか──。
印刷や出版に関わる人にとっては、どこまで踏み込んだ内容を扱うべきかという判断軸を、広報やメディアの仕事に携わる方にとっては、信頼を得るための姿勢を、歴史を学びたい方にとっては、「出版の自由」がどのように生まれたのかを考えるきっかけを、この事件は与えてくれます。
本記事では、ゼンガーの歩みを7つの幕に分けてたどっていきます。印刷会社の視点を交えながら、「真実を届けること」と「刷る責任」について、じっくりとひもといていきます。
2|第一幕|1733年、NY植民地に鳴り響いた活版の音
冬を間近に控えた1733年11月5日の早朝、ニューヨークのブロードストリートに面した裏庭で、一台の木製スクリュー式印刷機がきしむ音を響かせていました。ハンドルを引くたびに、活字の並んだ組版が厚い紙を押し上げ、インキの匂いが冷たい空気に溶けていきます。――その機械を操っていたのが、ドイツ移民の印刷職人ジョン・ピーター・ゼンガー。わずか二人の助手とともに、1時間あたり約250枚を刷り上げるこの“小さな工房”こそ、『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』創刊号を生み出す現場でした。
移民職人が背負った二つのプレッシャー
ゼンガーは1710年に13歳でニューヨークへ渡り、植民地唯一の印刷人ウィリアム・ブラッドフォードの徒弟となった人物です。活字を拾う技術も、紙の質を見極める目も、すべては8年の奉公で身に付けたものでした。そんな彼に、新たな新聞計画を持ち込んだのが法律家ジェームズ・アレクサンダーら反コスビー派の知識人たち。
「君が刷ってくれれば、私たちは真実を書く」――だが、その真実は総督ウィリアム・コスビーの腐敗を暴く危険な火種です。刷るだけで罪に問われる時代に、ゼンガーは「紙の裏にインキを染み込ませることは、市民の声を刻むこと」だと腹を括りました。
“No.1”と刷り込まれた4ページの挑戦状
創刊号はたった4ページ建て。1面では早くもコスビーの年俸問題を皮肉り、3面の論説欄には「権力は批判なくしては腐敗する」という一節が載りました。植民地の読者は喝采し、総督官邸は怒りに震えます。翌1734年1月15日、コスビーは「扇動的中傷」の証拠として新聞をワラルストリートで焚書し、犯人逮捕の懸賞金を掲示しました。しかし紙は燃えても言葉は燃えず、次の号が再び街角の書店に積まれる――そんないたちごっこが始まります。
活版がつくった“もう一つの公共圏”
当時の木製印刷機は、二人一組で15秒に一度のサイクルを回します。ゼンガーの工房でも「ビート(インキ付け)」と「プル(圧印)」が声を掛け合い、夜明け前には千枚近い紙束が積み上がりました。読者がページを開くたび、活字が立てるかすかな凹凸は「護符」のように自由の感触を伝えたといいます。実際、週刊紙ながら発行部数は急増し、コスビー寄りの『ニューヨーク・ガゼット』を上回る日もあったと記録に残ります。印刷機という“情報インフラ”が、市民の議論を生む“公共圏”を実際に拡張した瞬間でした。
3|第二幕|逮捕・投獄——それでも新聞は刷られ続けた
総督の圧力が始まる──焚書と懸賞金
1734年11月6日、総督ウィリアム・コスビーはついに強硬手段に出ました。ゼンガーの新聞『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』の内容が「扇動的中傷(サディシャス・リベル)」にあたるとして、公的な焚書を命じたのです。さらに、新聞の寄稿者を名指しした者には懸賞金50ポンドを支払うとする通告も出されました。
これは、批判記事を止めさせるというより、「新聞そのものを社会から排除する」ことを狙ったものでした。しかし、この威圧的な措置にもかかわらず、ゼンガーの新聞は変わらず発行され続けます。人々は街角で紙面を回し読みし、「自由な紙が、自由な街をつくる」とささやき合ったと伝えられています。
ゼンガー逮捕と異常な保釈条件
それから11日後の1734年11月17日、ついにゼンガー本人が逮捕されます。早朝、逮捕状を手にした保安官が印刷所に現れ、ゼンガーを拘束。そのまま市庁舎の屋根裏にある石造りの牢へと連行されました。
その後開かれた臨時審問では、本人に400ポンド、保証人2名にそれぞれ200ポンドという非常に高額な保釈条件が課されます。当時の印刷職人の年収が40ポンドほどだったことを考えると、これは実質的に「釈放はあり得ない」と言われたも同然でした。
不起訴を跳ね返した検察の執念
ゼンガーに対する訴追は、法的にも異例の展開をたどります。2度にわたって開かれた大陪審はどちらも、「起訴する根拠が不十分」と判断し、不起訴を勧告しました。
しかし検察側はこの結果を受け入れず、通常ならば行われない**インフォメーション起訴(大陪審を通さない起訴手続き)**に踏み切ります。コスビー総督の側近たちは、なんとしてもゼンガーを法廷に立たせ、新聞を止めようとしていたのです。
獄中から届く声と、印刷機の音
逮捕されても、ゼンガーは発行を諦めませんでした。獄中から原稿や指示書を紐でつり下げて印刷所とやり取りし、新聞づくりを続けます。受け取ったのは、妻のアンナ・ゼンガー。活字を拾い、インキを練り、手動印刷機を回して、週に一度の新聞発行を守り続けました。
印刷機は一度に1枚ずつしか刷れません。15秒ごとに鉄枠を押し、革パッダーでインキを均一に叩き込む――そんな作業を夜通し続け、週刊4ページの紙面が積み上がっていきました。記録によれば、この時期の新聞はむしろ発行部数が増えたといわれています。
収益ゼロでも「刷る意義」を選んだ印刷所
この間、印刷所には商業印刷の注文がほとんど入らなくなっていました。政治色の強い新聞を発行していることで、取引を控える顧客が相次いだからです。そんななか、アンナは印刷所を維持するためにあらゆる手段を講じます。
読者からの寄付広告で紙代をまかない、版木や活字を質に入れて短期の融資を受け、さらにはインキを混ぜて節約するといった工夫を積み重ね、新聞発行を止めずに乗り切りました。利益はゼロに等しかったかもしれません。しかし、ゼンガー夫妻にとって、「刷ること」そのものが社会への投資であり、正義の行動だったのです。
4|第三幕|歴史を変えた裁判——「真実は罪ではない」
1735年8月4日、ニューヨーク州最高裁判所。蒸し暑い朝、ジョン・ピーター・ゼンガーは牢から護送され、法廷に姿を現しました。見物人や新聞記者に加え、総督側の役人たちが傍聴席を埋め尽くしています。この裁判で問われるのは、ゼンガーが新聞を印刷したことが「政府批判=名誉毀損」にあたるかどうか。そして、その判断を下すのは法の専門家ではなく、12人の一般市民からなる陪審員でした。
総督側が仕掛けた“名誉毀損”の罠
検察が主張したのは次のような論理です。
「ゼンガーが印刷した記事は、コスビー総督の名誉を著しく傷つけた。
たとえ内容が真実であっても、それが政府を批判するものであれば、
社会秩序を乱す“扇動的中傷(サディシャス・リベル)”にあたる」
これは当時のイギリス法に基づいた見解であり、「事実かどうか」は名誉毀損の成立には関係がないとされていました。つまり、「たとえ真実でも罪に問われる」というのが当時の常識だったのです。
異端の弁護士、アンドリュー・ハミルトンの登場
ゼンガーの弁護に立ったのは、ペンシルベニアから招かれたベテラン弁護士、アンドリュー・ハミルトンでした。
彼は開廷早々、毅然とこう語りかけます。
「正義とは、法に従うことではなく、真実に従うことだ」
法廷は一瞬静まり返り、そしてどよめきが広がりました。
ハミルトンは陪審員に向けて、力強くこう訴えます。
「もしあなた方が、“真実を印刷することすら罪になる社会”を望むのであれば、
ゼンガーを有罪にすればよい。
しかし、“真実を伝える自由”がこの街に必要だと考えるのであれば、
どうか彼を無罪としてください」
判事の制止と、陪審の沈黙
ハミルトンの主張は、判事ジェームズ・デランシーからたびたび遮られます。
「この裁判に真実は関係ない!」
判事はそう言い切り、議論の方向を修正しようとします。
それでも陪審員たちは、市民の空気を静かに感じ取っていました。
そして、その日のうちに評決が下されます。
陪審の答えはひと言だけだった
裁判の終盤、陪審長がゆっくりと立ち上がり、判事に向かってこう告げました。
「Not guilty(無罪)」
一瞬の静寂のあと、法廷には歓声と拍手が湧き上がりました。
アンドリュー・ハミルトンはその場で称賛され、名誉市民の称号が贈られたと伝えられています。
ゼンガーは釈放され、印刷所に戻りました。その晩の様子について詳しい記録は残されていませんが、法廷に集った市民たちの喜びと、活版が刻むインキの匂いが、「真実は罪ではない」という時代の始まりを静かに祝っていたのかもしれません。
法律より先に、社会が変わった
この裁判の判決は、名誉毀損法をすぐに変えたわけではありません。しかし、それ以上に大きかったのは、「市民が真実の報道に価値を認め、その自由を支持した」という事実です。
言い換えれば、法律が変わるより先に、社会が先に変わったのです。
印刷会社の視点から見るゼンガー裁判
この裁判では、「誰が書いたか」ではなく、「誰が印刷したか」が問われました。ゼンガーは記事の執筆者ではありません。
それでも彼は、“真実を伝える”という内容を印刷という手段で世に出したことで、法廷に立たされたのです。
この出来事は、印刷業が持つ本質的な意味――**「刷ることには、社会的責任が伴う」**という重みを、私たちに強く示しています。
5|第四幕|社会的インパクト——憲法修正第1条への布石
「自由にものを言うことは、市民の権利である」──
1735年のゼンガー裁判は、そうした意識をアメリカ社会に根づかせる大きな転機となりました。
判決そのものが法律を即座に変えたわけではありませんが、のちに“出版の自由”という考え方が制度として結実していく、その始まりに位置づけられています。
「言葉の自由」が根を張りはじめた時代
裁判が行われた1730年代のアメリカは、まだ13の植民地がイギリスの統治下にあり、政治や出版活動も王権の影響下にありました。
政府を批判する記事は“秩序を乱す行為”とみなされ、法廷に立たされることも珍しくありませんでした。
しかし、ゼンガー裁判で陪審員が「真実を伝えたことに罪はない」と判断したことで、印刷や出版の現場には小さな変化が生まれます。
「批判される側ではなく、市民の利益が優先されるべきだ」という認識が、徐々に広がっていったのです。
一部の文献では、この出来事がペンシルベニアやヴァージニアの新聞人・印刷人たちにとっての精神的な支柱となったとも記録されています。
ただし、ゼンガー事件が法的な判例として各植民地に波及したという明確な証拠は確認されていません。
あくまで、“象徴的な事件”として記憶されたのです。
合衆国憲法・修正第1条へとつながる道
それから半世紀以上が経った1791年──
アメリカ合衆国は、独立を果たし、憲法修正第1条を採択します。
「連邦議会は、言論または出版の自由を制限する法律を制定してはならない。」
この一文が意味するものは明白でした。
ゼンガーの時代に市民が感じた「真実を語ることすら罪になる」世界からの決別です。
ゼンガー事件そのものが直接引用されたわけではありませんが、「真実を伝える自由」に社会が共感し、制度へと昇華されたことは、多くの研究者が指摘しています。
社会が先に納得し、法があとから追いつく
ゼンガーの無罪評決からしばらくは、名誉毀損法自体は従来のままでした。
それでも、多くの陪審裁判では「事実であれば無罪」という判断が繰り返され、“慣習としての自由”が定着していきました。
つまり、社会の認識が先に変わり、法律がその背中を追いかけるという順序だったのです。
このように、ゼンガー事件は「制度の発端」ではなく、「価値観の転換点」として大きな意義を持っています。
印刷会社としての教訓──「刷る」ことは、責任を持つこと
この事件は、印刷業にとってもう一つの意味を持っています。
それは、「誰が書いたか」ではなく、「誰が刷ったか」が問われたという点です。
ゼンガーは筆者ではなく、印刷人でした。にもかかわらず、出版物に対する責任は彼に課されました。
現代でも、印刷会社がクライアントの原稿を受け取る際には、その内容にどこまで関与するべきか、判断が求められる場面があります。
ときに、社会的な議論を呼ぶ案件もあります。
そんなとき、私たちが立ち戻るべき問いは、300年前と同じです。
「この紙に刷るべきか、それとも刷らぬべきか」
この問いに真摯に向き合う姿勢こそが、印刷業の信用を築き、社会との信頼関係を育てる礎になるのではないでしょうか。
6|第五幕|印刷会社の視点で読み解くゼンガーのレガシー
刷ることで、社会は記録され、動き出す。
——無署名の記事から、誰かの言葉が届いたとき、そこにいたのは“印刷人”だった。
1735年のゼンガー事件は、法や政治にとっての転換点であると同時に、「印刷業とは何か」を深く問い直す事件でもありました。ゼンガーは決して筆を執ったわけではありません。
彼は「刷った」ただそれだけで逮捕され、法廷に立たされました。
なぜ、それでも彼は活字を組み続けたのか。
なぜ、妻アンナは新聞発行を止めなかったのか。
ここでは、“印刷のプロフェッショナル”という視点から、ゼンガーの選択に光を当てます。
商業印刷を超えた「言論の器」への意識
ゼンガーが発行した『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』は、もともと収益性の低い媒体でした。スポンサーも多くはなく、政治色の強い内容ゆえに、民間の印刷依頼も途絶える時期があったと記録されています。
それでもゼンガーは続けました。
そこにあったのは、「刷ること自体が社会の役に立つ」という明確な思想です。
現代でいえば、営利を超えて非営利・公的情報の発信を担う印刷会社の姿と重なります。CSRや公共メディア協力の先駆的な在り方といえるでしょう。
“匿名原稿”とどう向き合うか──編集判断の原型
ゼンガーが印刷した記事の多くは、匿名やペンネームによるものでした。
書いたのは政治家、弁護士、反体制派の知識人たち。
しかし、それを「社会に届ける形」にしたのは、印刷職人ゼンガーの手でした。
この構造は、現代の商業印刷会社がどのような内容を扱うべきかという倫理的判断にもつながります。
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誰が書いたかではなく、何を届けるか
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印刷物は責任ある意思表示の手段であるべき
という視点が、ゼンガー事件から浮かび上がってきます。
印刷物は“記録”ではなく“証言”である
裁判で検察が証拠としたのは、印刷された新聞紙そのものでした。
つまり、「刷る」という行為は単なる複製ではなく、“社会への主張”として扱われたのです。
これは今日の印刷業にも強く通じます。
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自費出版の回顧録
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地方議員のビラ
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団体の声明文
…それらすべてが、**社会に向けた“記録”ではなく、“証言”**なのです。
そして、ゼンガーはそれを知っていたからこそ、活字を拾う手を止めなかったのでしょう。
活版からデジタルへ──「刷る」という意志の継承
印刷機は進化しました。
金属活字も、手動プレス機も、今では業界の一部しか使いません。
しかし、印刷という行為の本質は今も変わりません。
それは、「誰かの思いを、カタチにして社会に届けること」。
そして、そのカタチには責任と選択が宿ります。
ゼンガーが私たちに遺したのは、紙面でも機械でもありません。
それは、**「刷るべきか、刷らざるべきか」**という問いを抱えながら、正面からそれに向き合う姿勢です。