光の干渉実験とは?──“すべてを知っていた最後の男”トーマス・ヤングが光の波動性を証明した瞬間

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▶併せて読みたい記事 光学の歴史③ ホイヘンスの原理とは?クリスティアーン・ホイヘンスが示した“光の波動説”と現代光学の出発点

▼当記事は光学の歴史④です。▼


🔬 導入|光は波か?粒か?──たった一つの実験が変えた“常識”

18世紀末、科学界ではニュートンの光の粒子説が“常識”とされていました。
光は小さな粒(コーパスキュル)が直進することで、まっすぐ進み、屈折し、反射する──それが“科学的に正しい”と信じられていた時代です。

しかし、その常識に真っ向から挑んだ人物が現れます。
イギリスの科学者、トーマス・ヤング(Thomas Young)
彼が1801年に発表した、たったひとつのシンプルな実験──**「二重スリット実験」**が、光学の歴史を大きく揺さぶることになるのです。

二つの細いスリットを通した光が、スクリーン上に明暗の縞模様を生む現象。
この“干渉縞(かんしょうじま)”こそが、光が“波”であることの決定的な証拠でした。

当時は理解されず、評価もされず、忘れられかけたこの実験は、やがてフレネル、マクスウェル、そしてアインシュタインにまで影響を与えることになります。
さらには21世紀の量子力学へとつながり、“光の正体”をめぐる科学の旅を加速させたのです。

この章では、ヤングの偉業がなぜ時代を超えて重要なのか、どのように科学の常識を変えていったのか──その背景と意味を丁寧にひもといていきます。


✅ 第1章|なぜ“光の研究”は100年も停滞したのか?──ホイヘンスの波動説が忘れられた理由

17世紀、オランダの物理学者**クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens)**は、光の本質を“波”と捉える革新的な理論を発表しました。
それが、光の波動説──光は空間を伝わる“振動”であり、まるで水面を広がる波のように進んでいくという考え方です。

しかしこの理論は、当時のヨーロッパではほとんど受け入れられませんでした。
その最大の理由は、**“ニュートンの存在”**にあります。


🧠 ニュートンの影響力──光は“粒”であるという圧倒的な説得力

ホイヘンスが波動説を発表したわずか数年後、**アイザック・ニュートン(Isaac Newton)**が登場します。
彼はプリズムによる光の分解実験や、反射・屈折の正確な説明をもとに、**光は粒子である(=粒子説)**と主張しました。

しかもこの粒子説は、観察された現象と見事に一致していました。

  • 光が直線的に進む

  • 鏡で跳ね返る(反射)

  • 水やガラスで屈折する

  • 影がシャープにできる

これらは確かに、“粒”が飛んでいると考えた方が説明しやすかったのです。

さらに、ニュートンは『プリンキピア』で万有引力を発見し、王立協会の中心人物でもありました。
彼の言葉は、**科学界の“絶対的な真実”**として扱われるようになります。
結果として、ホイヘンスの波動説は「異端」や「非合理」と見なされ、忘れ去られていきました。


📉 実験技術の限界と“波”の見えなさ

当時の科学技術では、「波動らしさ」を証明するだけの観測手段がありませんでした。
たとえば音波であれば空気の振動を感じることができますが、光の波は目に見えず、耳にも聞こえません

また、波には「回折(かいせつ)」や「干渉(かんしょう)」といった現象がつきものですが、それらを観測できるほどの精密な装置や制御技術もまだなかったのです。

つまり──
ホイヘンスの理論は正しかった。だが、時代がまだそこに追いついていなかった。


📜 こうして、光の研究は“100年の眠り”へ

こうして18世紀の光学は、ニュートンの粒子説が常識として広まり、
それに反する理論や観測は無視されるようになります。

光とは何か──その本質に迫る研究は、“ニュートンの影”のもとで停滞したまま、100年という時を眠ることになります。
そして、その眠りを破ることになるのが、次章で紹介する、トーマス・ヤングの実験なのです。


✅ 第2章|人物像:万能の天才トーマス・ヤング──“見えないもの”を信じた科学者

トーマス・ヤング(Thomas Young)は、1773年、イングランド南西部サマセット州の小さな町に生まれました。
幼い頃から書物を読みふけり、2歳で読み書き、6歳でラテン語を解し、14歳で複数の古典語を操ったと伝えられる、まさに天才少年。
しかもその才能は、語学だけでなく物理学・医学・音響学・言語学・天文学など、あらゆる分野に広がっていきます。


🧬 医学と物理を両立させた“学問のマルチプレイヤー”

若き日のヤングはまず医学の道に進み、ケンブリッジ大学とエディンバラ大学で人体の研究に没頭します。
一方で、光・色・音といった“目に見えない現象”への関心も深く、
彼の論文は物理学会と医学会の両方に掲載されるという異例の経歴を持っていました。

特に視覚と色の理論に関しては、のちに「三原色説」(赤・緑・青の組み合わせで人間の色覚が成り立っている)を提唱し、現代のRGBモデルの先駆けにもなっています。


🌈 三原色説への先駆け──“色を見る”ことへの挑戦

さらにヤングは、“光を見る”という行為そのものにも強い関心を抱いていました。
1802年、彼は「人間の網膜には、赤・緑・青の光にそれぞれ反応する3種類の感覚器官がある」とする仮説を発表しています。
これは、現代で言う「三原色説」──すなわち人間の色覚がRGBに基づいているという理論の原型です。

この仮説はのちにヘルムホルツによって理論的に補強され、**“ヤング=ヘルムホルツの三原色説”**として確立されます。
ヤングは、「光が何か」を追いながら、「人はどう見ているのか」という問いにも同時に挑んだ、真正のオールラウンダーだったのです。


▶併せて読みたい記事 RGBと三原色の原理──ヤング、ヘルムホルツ、マクスウェルが導いた“色の本質”


🗿 ロゼッタストーンの解読にも関与

ヤングの“万能ぶり”を象徴するのが、エジプトの「ロゼッタストーン」の解読です。
ナポレオンの遠征で発見されたこの石碑には、古代エジプト語(ヒエログリフ)・民衆文字・ギリシア語の三言語が刻まれていました。

ヤングはその文字の比較分析から、ヒエログリフが表音的な記号であることを突き止め、解読への道を開きます。
最終的に完全な翻訳を成し遂げたのはシャンポリオンですが、ヤングの解析が“最初の突破口”となったことは広く知られています。


🧍‍♂️ 物静かな性格と、論争を避けた態度

ヤングは、控えめで物腰が柔らかく、科学界の激しい議論には加わらない姿勢を貫いていました。
だからこそ、当時の「ニュートン派」に正面から敵対することなく、静かに干渉実験を行い、結果を淡々と発表したのです。

しかしその慎み深さゆえに、彼の発見は論争を巻き起こさないまま忘れられたとも言われます。
のちに彼を再評価した科学者たちは、**「あまりにも先を行きすぎた」「時代が彼に追いつかなかった」**と評しています。


🔭 ヤングはなぜ“光”に挑んだのか?

ヤングにとって光は、単なる物理現象ではなく、“人間が世界を見る仕組み”そのものでした。
それゆえ彼は、光の性質も、人の視覚も、どちらも同時に探究しようとしたのです。

こうしてヤングは、「光とは何か」と「色を見るとは何か」という、2つの巨大な問いをまたぐ科学者となったのです。


✅ 第3章|ヤングの二重スリット実験──光の“干渉”を初めて目で見せた瞬間

1801年、トーマス・ヤングは王立協会で、「光は波である」ことを実験で証明した」と発表しました。
その実験こそが、後に「二重スリット実験(double-slit experiment)」と呼ばれるものです。

このシンプルな装置と観察によって、ヤングは100年にわたり“忘れられていた波動説”に息を吹き込んだのです。


🧪 実験の仕組み──光をスリットに通すだけ

ヤングが行った実験の概要は、以下のようにシンプルです。

  1. 太陽光を細い穴(スリット)を通して、直進する細い光線をつくる

  2. その光線を、さらに二つの非常に狭いスリットに通す

  3. スリットを通過した光を壁に投影すると、**縞模様(しまもよう)**が浮かび上がる

この縞模様は、明るい線と暗い線が交互に並ぶパターン──
つまり「干渉縞(かんしょうじま)」と呼ばれる現象です。


🌊 干渉とは?──“波がぶつかる”ことで起きる明暗

ヤングの実験で観察された“縞模様”は、粒子ではなくに特有のふるまいです。

  • 二つのスリットから出た光が、波として空間に広がる

  • それぞれの波が重なり合い、「強め合う」部分では明るく、「打ち消し合う」部分では暗くなる

  • その結果として、明暗が交互に現れる

このように、波が互いに干渉する現象を**「干渉(interference)」**と呼びます。
水面の波でも同じ現象が起きますが、光でも同様のパターンが観測された──
それが、この実験の革新性でした。


💡 粒子なら、縞模様は絶対に現れない

ここが最も重要な点です。
もし光がニュートンの言うように**“粒子”でできていたら**──

  • 粒子は直線的に進むだけで、互いに強め合ったり打ち消し合ったりしません

  • したがって、壁にはただ「2本の明るい線」ができるだけ

ところがヤングの実験では、それとはまったく異なる**“干渉縞”がはっきりと現れた**のです。

これはつまり、光が“波”であることの決定的証拠でした。


📜 史上初、「目に見えるかたちで波動性を証明した瞬間」

ヤングはこの結果を『王立協会哲学紀要(Philosophical Transactions of the Royal Society)』に論文として発表します。
タイトルは「On the Theory of Light and Colours(光と色彩の理論について)」。

このとき、世界の科学史に新たなブレークスルーが刻まれました。
ホイヘンスが理論で語った“光の波動性”を、ヤングは実験で“目に見えるかたち”にしたのです。


🔁 しかし…科学界はこの発見をすぐには受け入れなかった

革新的であるほど、受け入れられるのは難しい──
この実験の評価が、**次の章で描かれる“冷遇の時代”**へとつながっていきます。


✅ 第4章|なぜヤングの理論は無視されたのか?──科学界の拒絶と孤立

ヤングの干渉実験は、光が“波”であることを視覚的に証明したものでした。
しかしこの大発見は、当時の科学界ではまったく評価されず、むしろ否定されることになります。

それはなぜだったのか?
その背景には、時代の空気と“科学の常識”が深く関係していました。


🧱 ニュートンの絶対性──「異論は許されない」時代

1800年代初頭のイギリスでは、アイザック・ニュートンの理論が科学の土台とされていました。
とりわけ彼の**光の粒子説(コーパスキュラー理論)**は、王立協会を中心とした科学者たちにとって“疑う余地のない正解”だったのです。

ニュートンは単なる学者ではなく、国家に認められた英雄的存在。
その影響力は計り知れず、彼の理論に反する説を唱えることは**“神に逆らう”かのような風潮**すらありました。

ヤングが行った実験は、まさにこの“絶対的な常識”への真っ向勝負でした。


🧪 “干渉”という概念自体が受け入れられなかった

現代の私たちは「波が打ち消し合う」ことを直感的に理解できます。
しかし当時の人々にとって、“光+光=暗くなる”という現象は感覚的にも理論的にも理解不能でした。

「光と光が重なるのに、なぜ暗くなるのか?」
「そもそも、光が波だなんて証拠が薄い」
──そんな疑念が科学者たちの間に広まり、ヤングの理論は“非科学的”とみなされてしまったのです。


📉 数学的な裏づけの弱さ

ヤングは多才な科学者でしたが、数学者としては精密な定式化を行うタイプではありませんでした。
干渉縞の間隔や角度などをざっくり説明する記述はありましたが、後年フレネルが行うような厳密な波動理論の数式展開には至っていませんでした。

結果として、ヤングの理論は**「直感的には面白いが、定量的に弱い」**という批判にさらされることになります。


👥 孤立無援──ヤングの性格と立場

加えて、ヤングは論争を避ける性格であり、
王立協会内にも積極的な支持者を持たなかったため、議論を広げる機会そのものが乏しかったのです。

論争を巻き起こすことなく、
反論もしないまま、
ヤングの干渉理論は**次第に“忘れられた存在”**になっていきます。


❄️ 科学における“冬の時代”──正しさより“受け入れられやすさ”

この時代の科学界が抱えていた問題は、「真実」であっても、時代の空気に合わなければ受け入れられないという構造でした。

つまり、
ヤングの理論は間違っていなかった。
ただ、時代がまだそこまで開かれていなかったのです。


🔁 その“干渉縞”を、再び科学の中心に戻す人物が現れる──

数十年後、オーギュスタン・フレネルが登場し、
ヤングの理論に厳密な数式と証明を与えることで、ようやく“波動説”は復活します。

次章では、この再評価の流れと、ヤングが科学史に残した“入口”としての意義をたどっていきます。


✅ 第5章|それでも光は波だった──フレネルからマクスウェルへ続く系譜

ヤングの干渉実験は一時的に無視されたものの、光の波動性を完全に否定できたわけではありません
むしろ、説明がつかない現象は次々と積み重なり、科学者たちは徐々に「やはり光は波ではないか?」という疑問を抱き始めます。

そしてヤングの干渉理論に再び光を当てたのが、フランスの物理学者──**オーギュスタン・ジャン・フレネル(Augustin-Jean Fresnel)**でした。


📐 フレネルがもたらした“数学的証明”──波動説の逆襲

1820年代、フレネルはヤングの干渉実験をさらに発展させ、
光の回折(かいせつ)現象や、偏光(へんこう)現象までを数学的に説明する波動理論を打ち立てます。

  • 回折とは…障害物の影に光が回り込む現象(粒子では説明困難)

  • 偏光とは…光の波が特定の方向に振動している状態

これらの現象を、数式と理論で精密に説明したことで、フレネルの波動説は一気に信頼を集め始めました。

かつてヤングが“感覚的すぎる”と批判された点を、フレネルはロジックで補強したのです。


🧭 アンペールとアラゴ──科学者ネットワークが支えた波動説

また、フレネルには彼を支える科学者仲間が多数いました。
特に**フランソワ・アラゴ(François Arago)やアンドレ=マリ・アンペール(André-Marie Ampère)**らは、彼の理論を王立アカデミーで紹介し、波動説がフランスを中心に浸透していく土台を築きます。

ヤングが孤立していたのとは対照的に、フレネルの波動説は“科学共同体の承認”を得ることに成功したのです。


⚡ マクスウェルの電磁波理論──光=電磁波という決定打

19世紀後半、イギリスのジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)が登場し、
電気と磁気の関係を統合したマクスウェル方程式を打ち立てます。

この方程式からは、ある特定の条件下で「波」が生じることが数学的に導かれます。
そしてその波の速度を計算すると──

その波は、ちょうど“光の速さ”になる

マクスウェルはここで大胆に宣言します。

光とは、電磁波の一種である。

この理論が登場したことで、光の波動説は“完全勝利”をおさめ、
ヤングとフレネルが見抜いた「光は波」という仮説は、ようやく近代物理の土台として受け入れられたのです。


🔁 忘れられたヤングが、ついに“復権”を果たす

フレネルとマクスウェルの業績によって、ヤングの干渉実験は科学史の金字塔として見直されます。
彼の理論は、もはや「面白い仮説」ではなく、**物理法則の根拠となる“観測事実”**として評価されるようになったのです。

王立協会の記録にも、ヤングの再評価が明記され、
彼の墓碑には「光学に革命をもたらした男」と刻まれています。


🧭 波動説の流れは止まらない──次なる舞台は“量子”へ

皮肉なことに、波動説が完全に定着した20世紀初頭、
今度は再び“粒子性”の再登場──つまり**光の二重性(波でもあり粒でもある)**が問題になります。

だがそれこそが、ヤングの干渉実験が再び脚光を浴びる理由となるのです。


✅ 第6章|“実験の力”が常識をくつがえす──ヤングの教訓とその意味

1801年──ヤングが二重スリット実験で「光は波だ」と示したその瞬間。
それは、人類が“目に見えない真実”をはじめて視覚で捉えた瞬間でもありました。

たとえ理論が支持されなくても。
たとえ科学界の大勢が否定していても。
“目に見える現象”が語る真実は、いつか必ず歴史に再評価される。

ヤングの物語は、そのことを私たちに強く教えてくれます。


🔬 理論と直感が衝突するとき、何を信じるか

ヤングが観測した干渉縞──
それは、誰が見ても否定できない「実在する光のふるまい」でした。
にもかかわらず、当時の科学界は「それでも粒子説の方が正しい」と言い張り、彼の発見を無視しました。

なぜなら、“理論の世界”と“現実の現象”が一致しなかったからです。

けれど科学とは、本来「世界がどうあるか」を見極める営みであって、
「自分たちの考えと一致するか」を確認する場ではないはずです。

ヤングは、現象を信じ、理論を疑うという、科学の本質を体現した人物でした。


🧠 実験の力──そして、可視化の力

ヤングの実験が画期的だったのは、**“誰でも再現できる”**という点にあります。

  • 複雑な装置はいらない

  • 理解するための高度な数学も不要

  • ただ「見ればわかる」──それが干渉縞のすごさでした

この“可視化”の力は、現代においても科学教育の原点です。
観察・再現・説明という科学の3本柱は、すべてヤングの実験に含まれていると言えるでしょう。


💡 ヤングが切り開いた“問い続ける姿勢”

干渉実験の原理は、21世紀のいまなお最前線にあります。
量子力学では、電子や光子(ひかりの最小単位)でも干渉縞が現れることがわかっており、
ヤングの実験は、もはや「古典物理」ではなく**“現代科学の出発点”**になっています。

そして、私たちはあらためてこう問い直すのです。

光とは何か?
波なのか、粒なのか、それともその両方なのか。

この問いの原型を生み出したのが、トーマス・ヤングでした。


🔁 常識を覆すのは、いつも“静かな観察”から始まる

ヤングは雄弁な理論家ではありませんでした。
多くの論争を巻き起こしたわけでもありません。
ただ一人、机に向かい、レンズとスリットを並べて、“現象が語る声”に耳を傾けた科学者でした。

そしてその声は、
100年後にマクスウェルを動かし、
200年後にアインシュタインを刺激し、
いまも物理学者たちの問いを生み続けています。

──科学とは、静かに問い、誠実に観察すること。
トーマス・ヤングの名は、いつまでもその原点に刻まれています。

この後、科学は急速に専門化し、
一人の人間がすべての学問領域を把握することは、もはや不可能な時代になっていきます。
後世、伝記作家アンドリュー・ロビンソンは、ヤングを「すべてを知っていた最後の男(The Last Man Who Knew Everything)」と評しました。
光の本質と人間の視覚、その両方に1人で挑んだ、まさに“最後の科学者”として。


▶次に読みたい記事 光学の歴史⑤ オーギュスタン・ジャン・フレネルとは?“フレネル回折”と光の波動説を証明した男の物語


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