手彩色写真とは?白黒写真に色を与えた歴史と職人技──横浜写真・商品開発・芸術表現まで徹底解説

\ ようこそ!新潟市の印刷会社「株式会社新潟フレキソ」のブログへ /よかったらぜひ、[当社トップページ](https://n-flexo.co.jp)もご覧ください!
名刺・チラシ・封筒・冊子・伝票からTシャツプリントまで、新潟市で幅広く対応しています。

第1章|手彩色写真とは?──白黒写真に“色”を与えた技法


白黒しか写せなかった写真の時代

19世紀後半、写真技術はヨーロッパやアメリカ、そして日本にも急速に広まりました。しかし、当時の写真は空の青さも花の赤も写らず、すべてが白と黒、灰色の濃淡でしか表現できませんでした。
現実世界に“色”があるのは当たり前です。それなのに、写真に色がない──このギャップが、当時の人々に「写真はなぜこんなに味気ないのか」「現実と違う」と違和感や物足りなさを感じさせていました。


“色のない写真”へのごく自然な不満

写真が普及するにつれ、記念写真や肖像写真を撮る人が増えました。しかし、完成した写真には色がなく、華やかさや生き生きとした表情が伝わらない。その“現実とのズレ”が、人々の不満や「もっと色がほしい」という声につながっていきました。


“人の手”で写真に色を与える──手彩色写真の誕生

この「色がない写真」を解決するために生まれたのが、手彩色写真です。
白黒で現像された写真の表面に、職人が絵具や染料で直接色を塗る──それはカメラや機械では実現できない、“人間の手”による色付けの技法でした。
写真館で現像された写真は、専門の彩色職人に渡され、空の青、肌の赤、着物の色などが一枚一枚、手作業で加えられました。


一点ものとしての価値と日本での発展

手彩色写真は、すべてが職人による手作業。一枚ごとに色合いも仕上がりも異なる“一点もの”です。
本来、写真は同じものを複製できるメディアですが、手彩色だけは複製のたびに新しい表情が生まれる、唯一無二の存在となりました。

この技法は19世紀末に日本にも伝わり、明治期には横浜を中心に**“横浜写真”**として観光土産などの商業商品へと発展していきます。浮世絵師や日本画の絵師たちが彩色職人となり、日本独自の彩色文化と写真技術が融合した写真が世界中に広まっていきました。


第2章|なぜ“色付き写真”が求められたのか──商品開発としての手彩色写真


“白黒写真”は不自然な商品だった

写真が広く普及し始めた19世紀後半、一般家庭にも写真館で記念写真や肖像写真を撮る習慣が根づいていきました。
しかし当時の写真はすべて白黒。空の青さも花の鮮やかさも、人肌の温かさもまったく写らず、現実から“色”だけが失われていたのです。

消費者の多くは、現実の世界に色があるのに、写真だけが白黒であることをどこか「物足りない」「不自然だ」と感じていました。とくに特別な思い出や大切な人を残したいという場面では、「もっと華やかに」「もっと生き生きとした姿を残したい」という自然な願いが生まれていました。


“色付き写真”は写真館にとっての商機

こうした消費者の声に最初に応えたのが、現場の写真館です。
写真館は写真を「売る商品」として扱っていました。
白黒写真は安価な基本商品ですが、そこに職人が手作業で色を加えた「色付き写真」は、“高級写真”として高い価格で販売されるようになりました。

つまり、手彩色による“色付き写真”は、写真館にとって「他社との差別化」と「利益率アップ」を両立できる“新商品”だったのです。
この商売の仕組みが、全国の写真館で急速に広がっていきました。


手彩色写真は“売れる写真”を作るための実用工程

手彩色という技法自体は写真館が発明したものではありません。
もともとあった彩色技術を、“商品をより高く、より多く売るための工程”として積極的に取り入れたのが写真館だったのです。

撮影と現像で仕上がった白黒写真を、彩色職人が一枚ずつ手作業で色付けする。
特別な機械も不要で、職人さえ確保できれば高価な商品を量産できる──
このシンプルな商品開発プロセスが、手彩色写真という“写真産業の商品開発”そのものでした。


“色のある写真”は消費者ニーズから生まれた

手彩色写真は、写真技術の進化ではありません。
「色があった方が美しい」「色付き写真が欲しい」というごく自然な消費者ニーズ、
そして「もっと高く売れる商品を作りたい」という写真館の商業戦略が合致して生まれた、“ごく実用的な商品開発”だったのです。


第3章|誰が“色”を塗ったのか──彩色職人と手彩色写真の技法


彩色は“写真家”ではなく“職人”の仕事だった

手彩色写真を仕上げていたのは、写真家本人ではありません。現像された白黒写真は、彩色を専門とする職人たちの手に渡されました。欧米では「カラーリスト」と呼ばれる専門職が存在し、日本では浮世絵師や日本画の絵師たちがこの工程を担当していました。

写真館は撮影・現像までを担い、その後の「色付け」という工程だけを外部の職人に依頼するのが一般的でした。こうして手彩色写真は、写真技術と職人技が組み合わさった“共同作業の商品”だったのです。


写真表面に直接“色を塗る”アナログな工程

彩色職人は、白黒写真を「素材」として受け取り、絵筆や刷毛を使って写真の表面に直接色を塗っていきました。使われる絵具は水彩絵具、アニリン染料、油絵具などさまざまです。青い空や赤い頬、緑の草木など、被写体に合わせて色を塗り分けていきます。

全て手作業で進められるため、機械による色分解や量産工程は存在しませんでした。彩色は“光の記録”である写真に、職人の手で色彩を与える完全なアナログ作業だったのです。


色の選び方は“職人の目と感覚”がすべて

この彩色作業には、厳密な色見本や明確な基準はありません。色選びはすべて職人の経験や感覚に委ねられていました。自然な青さに見える空、やわらかく見える肌色、鮮やかすぎない植物の緑──これらは職人の技術で調整されていたのです。

日本では絵師が浮世絵や日本画の伝統色を応用し、独特の色調に仕上げることもありました。欧米では特に人物写真の肌の色に注意が払われていました。


“写真なのに一点もの”だった手彩色写真

職人による手作業の彩色は、すべて“一点もの”でした。同じネガを使っても、職人が違えば色の選び方も濃淡も仕上がりも異なります。本来写真は複製できる技術ですが、手彩色写真は例外で、一枚ずつ違う“手仕事の製品”だったのです。

こうして手彩色写真は、「写真館が撮影・現像した白黒写真」と「職人が色を加えた彩色工程」という二つの仕事によって完成する“コラボレーション商品”でした。色付けは写真技術の一部ではなく、写真館が“売れる商品”に仕上げるための外注作業、いわば商品加工の一工程だったといえるでしょう。


第4章|フォトクロームとの違い──写真に“色を塗る”と“色を刷る”の違い


“色のある写真”は2つの技法で生まれた

19世紀末、街の写真館や写真愛好家の前には「まるでカラー写真のような作品」が登場します。しかし、その正体は大きく2種類に分かれていました。それが「手彩色写真」と「フォトクローム」です。どちらも白黒写真に色彩を加える方法ですが、仕組みも価値もまったく異なっていました。


手彩色写真──“写真そのもの”に色を塗る職人技

手彩色写真は、現像した白黒写真そのものに、職人が絵筆や染料で直接色を塗る技法です。一枚ずつ手作業で仕上げられるため、まったく同じ作品は二つとありません。写真館にとって手彩色は、商品価値を高めるための加工工程であり、芸術品のような“一点もの”の商品でもありました。


フォトクローム──“写真をもとに刷る”工業的な印刷技術

一方、フォトクロームは写真の情報をもとに作ったガラス原板を使い、複数の石版を色ごとに作って順番に刷り重ねるという技法です。これはいわゆる“印刷物”であり、印刷機を使って同じ絵柄を何枚も量産できました。見た目は写真のようですが、実際は写真を下絵にした大量生産の印刷商品だったのです。


▶併せて読みたい記事 フォトクローム(Photochrom)とは?リトグラフで白黒写真に色を与えた19世紀の彩色印刷技法【写真と印刷の歴史】


“職人の一点もの”か、“工場の大量生産品”か

見た目が似ているため、当時も一般の人には区別がつかないことが多かったのですが、手彩色写真とフォトクロームは根本から違う商品です。
手彩色写真は写真そのものに人間の手で色を塗った一点もの。
フォトクロームは写真をもとに工場で何枚でも刷れる大量生産の印刷物。

“写真に色を塗る”のか、“写真をもとに刷る”のか──。
19世紀末の“カラー写真風”表現は、この2つの技法によって社会に広まりました。


第5章|日本と手彩色写真──“横浜写真”は観光ビジネスから生まれた


“色のない写真”は日本でどう受け入れられたか

19世紀後半、日本にも西洋から写真技術が伝わりました。しかし伝わったのは白黒写真だけ。
鮮やかな花や富士山の青い空、着物の色彩さえ写せない白黒写真は、日本人にとってどこか物足りないものでした。
なぜなら日本には、浮世絵や染物など、古くから色彩を楽しむ文化が日常に根づいていたからです。


横浜写真──観光ビジネスが生んだ“色付き写真”

明治時代、開港地・横浜には多くの外国人観光客が集まりました。
そこで写真館は、観光客向けの土産物として「色付きの日本風景写真」を商品化します。
これが後に「横浜写真」と呼ばれる手彩色写真です。

撮影後の白黒写真を絵師や職人が一枚ずつ手作業で彩色し、桜や富士山、芸者など“日本らしい”被写体が色鮮やかに仕上げられました。
これらの写真は異国情緒あふれる高級土産品として販売され、海外にも輸出されるようになります。


職人技が“観光土産”を支えた

横浜の写真館にとって、手彩色は芸術ではなく“商品製造工程”でした。
浮世絵師や日本画の絵師たちが、その色彩感覚を活かして写真に色を与え、観光ビジネスを支える重要な役割を果たします。
こうして生まれた“横浜写真”は、日本独自の色彩文化と写真技術が融合した、“工芸品型の商品”だったのです。


“観光と写真”が作り出した日本の手彩色文化

横浜写真は、芸術作品であると同時に観光産業の商品でした。
職人の彩色技術は、まさに輸出用工芸品の製造ラインの一部であり、“日本の写真”として世界中へ広まりました。
日本の手彩色写真は、観光ビジネスと職人文化が結びついたことで独自の発展を遂げた──
それが“横浜写真”です。


第6章|オートクローム登場と手彩色写真の終焉


カメラが“色そのもの”を写す時代へ

1907年、フランスのリュミエール兄弟による「オートクローム」の発明は、写真技術に決定的な変化をもたらしました。それまで写真に色を加えるには、職人が手作業で彩色するしかありませんでした。しかしオートクロームは、微細な色付き澱粉粒をフィルターとして用い、カメラが現実そのものの色を直接記録できる初の技術でした。


▶併せて読みたい記事 オートクロームとは?リュミエール兄弟が実現した世界初の“カラー写真”技術をやさしく解説


手彩色写真は“過去の技法”になった

この技術革新によって、写真館が職人に色を塗らせる理由はなくなります。撮影した写真は、そのまま“本物の色”で仕上がる時代へ。手彩色写真は、時代遅れの過渡的技法として急速に姿を消していきました。


それでも消えなかった“職人の色”

ただし、手彩色写真が完全に消えたわけではありません。20世紀以降も、一部の美術家や写真家が人間の感性と手仕事による彩色に独自の価値を見出し、芸術作品として手彩色写真を制作し続けました。カメラがいくら正確な色を写せるようになっても、“人間の手で生まれる揺らぎ”や“機械には出せない色”は、現代でも芸術表現の一つとして評価されています。


第7章|現代に残る手彩色写真──芸術表現としての再評価


技術から芸術へ──手彩色写真の変化

20世紀に入り、カラー写真技術が普及すると、手彩色写真は写真産業の主流から消えていきました。しかし、「人の手で色を塗る」こと自体が完全に廃れたわけではありません。むしろ、手彩色写真は機械では再現できない“揺らぎ”や“個性”を持つ表現として、現代では芸術作品として再評価されています。


機械には真似できない“一点もの”の魅力

現代のデジタル写真や印刷では、どんな色も簡単に複製できますが、職人が手作業で塗った手彩色写真は全て“一点もの”です。人間の目で見た世界を、そのまま絵筆で表現するからこそ、写真ごとに色の雰囲気や印象が異なります。こうした「同じものが二つとない」独自性が、芸術作品としての価値を高めています。


美術館・写真展で再発見される手彩色写真

現在では、アメリカのメトロポリタン美術館やロンドンのサイエンス・アンド・メディアミュージアムなど、多くの美術館や写真展で手彩色写真が展示されています。産業技術としては役割を終えた手彩色写真ですが、「写真と絵画のあいだ」で生まれたこの表現は、今なお新鮮なインスピレーションを与える芸術作品として現代に生き続けています。


第8章|まとめ──手彩色写真が語りかける“色”の記憶


写真に色がない時代、“色を求める声”が生んだ商品

19世紀、白黒写真しかなかった時代、人々は「現実には色があるのに、なぜ写真には色がないのか」と自然に違和感を抱きました。
写真館はこの“もっと美しく、もっと華やかな写真がほしい”という消費者の声に応える形で、「手彩色」という商品加工工程を取り入れます。
この判断は、単なるサービスではなく、明確なビジネス戦略でもありました。


“手彩色写真”は現場の商業戦略が生んだ商品開発

手彩色写真は、写真技術の進歩から生まれたものではありません。
色がつくことで写真の付加価値が上がり、消費者の満足度と販売単価も高まる──
こうした現実的な需要と現場の工夫が生んだ“商業的商品”だったのです。

日本でも“横浜写真”のように、観光土産として輸出されるほどのヒット商品となり、職人の手彩色という工程は工芸品型商品の一部として重要な役割を果たしました。


機械の時代が来ても、“人の手の色”は残った

やがて、カメラそのものが色を写せる技術(オートクロームなど)が登場し、手彩色は産業の現場から姿を消していきます。
しかし、“人間の手で生み出される揺らぎ”や“一点ものの表現”としての価値は、芸術作品として今なお高く評価されています。
現代では、美術館や写真展で“写真と絵画の間に生まれた独自の表現”として再発見され、手彩色写真は“色の記憶”を伝える大切な資料・作品となっています。


失われた色を取り戻す“手仕事”が写真史に残したもの

手彩色写真とは、“現実の色”を写真に戻すために、人間の感覚と記憶で色を再現した手仕事の記録です。
技術の進歩によって生まれ、消え、再び芸術として見直された──
この歴史こそが、手彩色写真の特別な存在意義だと言えるでしょう。

手彩色写真は、消費者ニーズ・商品戦略・職人技・芸術表現──
すべてが重なり合った「色の記憶」の象徴だったのです。


\株式会社新潟フレキソは新潟県新潟市の印刷会社です。/

あらゆる要望に想像力と創造力でお応えします!

印刷物のことならお気軽にお問い合わせください。

お問い合わせフォームへ

会社概要はこちら

事業概要はこちらから

新潟フレキソインスタグラムのバナー

↑オリジーではTシャツやグッズを作成してます!インスタで作品公開してます!


🔗関連リンクはこちらから

カメラ・オブスクラとは?2000年かけて“光”が写真になるまで──カメラの原点をやさしく解説

ジョセフ・ニセフォール・ニエプスとは?世界最古の写真と“ヘリオグラフィ”の技術と歴史をやさしく解説

ダゲレオタイプとは?|ルイ・ダゲールの発明から仕組み・印刷との関係・日本と映画まで解説

カロタイプとネガ・ポジ法の歴史──ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが写真を“複製可能”にした瞬間

湿板写真とは?フレデリック・スコット・アーチャーが発明した“コロジオン湿板法”と高画質ネガ、暗室馬車の時代

写真乾板とは?リチャード・リーチ・マドックスが切り拓いた「乾板写真」の革新と写真史の転換点

ロールフィルムの発明とは?ジョージ・イーストマンが変えた写真の歴史と民主化、Kodakの革命

フォトクローム(Photochrom)とは?リトグラフで白黒写真に色を与えた19世紀の彩色印刷技法【写真と印刷の歴史】

RGBと三原色の原理──ヤング、ヘルムホルツ、マクスウェルが導いた“色の本質”

世界初のカラー写真とは?ジェームズ・クラーク・マクスウェルが示したRGBの原理と“色を写す”科学の始まり

カラー写真はいつから始まったのか──三色分解法・加法混色法・減法混色法と発明者ルイ・デュコ・デュ・オーロンのすべて

オートクロームとは?リュミエール兄弟が実現した世界初の“カラー写真”技術をやさしく解説

ガブリエル・リップマンとは?ノーベル賞を受賞した“光そのもの”を閉じ込める写真技術─リップマン式天然色写真をやさしく解説

コダクロームとは?世界初の本格カラーフィルムが変えた写真と印刷の常識

アグファカラーとは?世界初の“現像と発色が一体化”したカラーフィルムと写真革命

インスタントカメラ・ポラロイドカメラとは?歴史・現像の仕組みとポラロイド写真・フィルム文化を徹底解説

C-41プロセスとは?フィルム写真の“現像”を誰でもできる技術に変えた標準方式

写ルンですとは?──使い捨てカメラが“写真文化”になれた理由と“現像インフラ”の力

デジタルカメラとは?フィルムから写真の常識を変えた仕組み・歴史・技術のすべて

スマホカメラは“最後のカメラ”か?写真の歴史と技術の完成、そして撮る「行動」になった現代

網点とは?ハーフトーンの意味・仕組み・歴史を徹底解説|印刷と写真を変えた“点”の革命を新潟の印刷会社が紹介

写真入り年賀状とは?──“家族の記録”を印刷して全国に届けた、日本だけの特別な文化を解説

画像拡張子・保存形式・解像度の違いと正解がわかる完全ガイド|JPEG・PNG・PDFも徹底解説【保存版】