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第1章|写真は“特別な技術”だった──ロールフィルム誕生前の世界
ガラス乾板と湿板写真──素人には扱えない“技術”
スマートフォンで気軽に写真を撮る。
そんな今では想像できないことですが、19世紀の終わりまで「写真を撮る」という行為は、誰にでもできることではありませんでした。
当時使われていたのは「湿板写真」。
ガラス板に自分で薬品を塗り、撮影したらすぐに現像しなければならない。
薬品の扱い、暗室作業、大きく重たいカメラ──すべてが専門的で、まさに職人の仕事でした。
その後、あらかじめ薬品が塗布された「乾板写真」が登場します。
これによって撮影準備は簡単になりましたが、写真は依然として重く割れやすいガラス板にしか写せないという常識のまま。
写真はまだ、“特別な道具”だったのです。
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写真は“儀式”だった──誰もが緊張した「一枚きりの瞬間」
写真撮影は、今のような日常的な行為ではありませんでした。
人々は正装してカメラの前に座り、数秒間じっと動かずにポーズを取る──それが“写真に写る”という特別な瞬間だったのです。
撮影できるのは、たった一枚。
「何枚も撮って、あとから選ぶ」という考え方など存在しません。
写真は一回きりの“作品”であり、“記念碑”のようなものでした。
誰でも写真を撮れる時代を夢見て──ジョージ・イーストマン登場の伏線
こうした“特別な道具”だった写真に、「もっと簡単にできないか」と挑んだ男がいました。
──ジョージ・イーストマンです。
彼が疑問に思ったのは、「なぜ写真はこんなにも手間がかかるのか?」ということでした。
大きく重たいガラス乾板を交換しながら、一枚ずつ撮影する不便さ。
そこで彼は考えます。
「そもそも──なぜ写真はガラスにしか写せないのか?」
イーストマンは、ガラス板という常識そのものを疑ったのです。
写真を“もっと軽く、もっと自由に”できる素材はないか。
そうして彼がたどり着いた答え──それが、“巻いて使える”フィルムでした。
これが、写真を日常に変えるロールフィルム革命の始まりだったのです。
第2章|ジョージ・イーストマンという男──銀行員が挑んだ写真の改革
写真に魅せられた、ひとりの銀行員
ジョージ・イーストマンは、もともとアメリカ・ロチェスターの銀行に勤める、ごく普通の事務員でした。
しかしある日、出張に備えて写真撮影の準備を始めた彼は、その面倒さに驚きます。
大きく重たいカメラ本体に、割れやすいガラス乾板。現像に使う薬品類や三脚まで──それらをすべて持ち運ばなければならないと知り、結局、撮影をあきらめたのです。
「これほど面倒なら、多くの人は写真なんて使わないだろう」
その“不便さ”こそが、イーストマンを写真技術の改良へと向かわせるきっかけとなりました。
乾板を“商品”にする──誰もが扱える技術へ
イーストマンが最初に取り組んだのは、ガラス乾板の改良と製品化でした。
当時の乾板は、自分で薬品を塗ってから使用するのが一般的。
そこで彼は、「あらかじめ感光材を塗布し、保存・持ち運びができる乾板」を商品として製造することを思いつきます。
1881年、彼は**イーストマン・ドライ・プレート・カンパニー(Eastman Dry Plate Company)**を設立。
彼の乾板は品質が安定し、プロの写真師たちの間で徐々に評価されるようになっていきました。
写真撮影の敷居を少しずつ下げる成果となったのです。
「なぜガラスでなければならないのか?」──フィルムという発想
乾板事業が軌道に乗った後も、イーストマンはその限界を感じていました。
ガラスは重く、割れやすく、1枚撮影するごとに交換が必要です。
そんなとき、彼はふと思います。
「なぜ写真はガラスでなければならないのか?」
そうして彼は、“巻いて使える”素材、すなわちフィルムという新たな可能性を模索し始めました。
この発想の転換こそが、写真を「一部の技術者だけが扱える技術」から、「誰でも楽しめる日常の道具」へと変える、大きな革命の出発点だったのです。
やがてその技術は、「ロールフィルム」として結実し、Kodakというブランドとともに、世界中へと広がっていくことになります。
第3章|ロールフィルムとは何か?写真を“巻き取れる”技術に変えたしくみと原理
写真の“しかた”は変わった。でも“しくみ”は変わらなかった?
ロールフィルムが登場したことで、写真は一気に日常化しました。
けれど、意外なことに──その原理そのものは、乾板写真の時代からほとんど変わっていません。
銀塩(ぎんえん)と呼ばれる微細な銀の粒子が光に反応し、現像液で化学変化を起こして像が現れる──この一連のしくみは、湿板も乾板もロールフィルムもすべて共通しています。
つまり、“写真を写す化学反応”はそのままに、形だけが変わったのです。
では、なぜロールフィルムはこれほどまでに「革命」と呼ばれたのでしょうか?
世界を変えたのは、“素材のかたち”だった
答えは、“かたち”です。
ロールフィルムは、それまでのガラス乾板とは違い、薄くて柔らかく、巻くことができる素材でした。
これによって何が可能になったか──それこそが、写真という文化を根底から変えたのです。
まず、撮影が連続して行えるようになりました。
カメラの中でフィルムを巻き取れる構造にすることで、1枚ずつ入れ替える必要がなくなったのです。
次に、カメラそのものが小型化・軽量化されました。
これは**「写真を持ち歩く」ことが現実になった**ということです。
さらに、フィルムは郵送ができる。壊れない。暗室がいらない。
このことでKodakは、「あなたはボタンを押すだけ。あとは私たちがやります」というビジネスモデルを成立させました。
つまり、フィルムという“かたち”の変化が、写真の“しかた”を根こそぎ変えてしまったのです。
そもそも、なぜ“ガラス以外でも写る”と気づけたのか?
もうひとつ見逃せないのは、ガラスからフィルムへの置き換えという発想そのものが、当時としては革新的だったということです。
19世紀の写真界では、ガラスはあまりにも“あたりまえ”の支持体でした。
光を通し、表面が平滑で、化学的にも安定している。
誰もがそれを当然の前提として受け入れていたのです。
そんななかでイーストマンは、**「同じ反応が起きるなら、支持体はガラスじゃなくてもいいのでは?」**と考えました。
そして彼は、軽くて巻ける素材=フィルムベースに目を向けた。
これは、感光材の研究よりも、「写真をどう使うか」という視点に立った発想でした。
つまり彼は、“写真のための素材”ではなく、“人の生活のための素材”を選んだのです。
この思考の転換こそ、真のブレイクスルーだったといえるでしょう。
巻き取れて、軽くて、壊れない──素材の特性が生んだ革命
初期のロールフィルムに使われたのは、セルロースニトレートという透明で加工しやすい素材でした。
しかしこれは非常に可燃性が高く、安全性に課題がありました。
そこでKodakは改良を進め、セルロースアセテート、そしてポリエステルへと素材を進化させていきます。
こうしたフィルムベースは、感光剤と一体化して“巻ける・撮れる・送れる・保存できる”写真材料となったのです。
そして何より重要だったのは、大量生産ができたという点です。
フィルムには、目に見えないレベルで均一な感光層を塗布する必要があります。
このためKodakは、ナノ単位での多層コーティング技術と、自動巻き取りラインを構築し、写真を“製品”として成立させる仕組みを完成させました。
写真の中身は変わらない。でも、写真の“意味”は変わった
ロールフィルムは、ガラス乾板と比べて「中身(化学原理)」はほとんど変わっていません。
でも「かたち」と「使い方」はまったくの別物でした。
その結果、写真は「特別な人が扱う技術」から「誰でも記録できる行為」へと進化しました。
撮影の連続性。持ち歩ける軽さ。送って現像できる利便性。
ロールフィルムがもたらしたのは、写真を“文化”へと変えるインフラだったのです。
第4章|Kodakが変えた写真のビジネスモデルと「写真の民主化」
カメラを売らず、“写真を売る”という発想
ジョージ・イーストマンが生んだKodakの最大の革新は、フィルムそのものだけではありません。
むしろ本質的だったのは、写真のビジネスモデルそのものを根底から変えたことでした。
それまでの写真術は、ガラス乾板や大型カメラを扱える限られた専門家や上流階級のものでした。
カメラも現像も自前、技術も道具もすべて自力でこなす必要があり、「写真を撮る」とは、職人的な行為だったのです。
そこにKodakが持ち込んだのは、まったく新しい仕組みでした。
「ボタンを押すだけ」──写真が日常に入りこんだ瞬間
1888年、Kodakは初の大衆向けカメラ「Kodak No.1」を発売します。
このカメラにはすでにフィルムが装填されており、100枚の撮影が可能でした。
ユーザーがやることは、シャッターボタンを押すだけ。
撮り終えたらカメラごとKodak社に送り、現像・焼き付け・再装填された状態で返却される──この一連のサービスが、定額で提供されたのです。
この仕組みを象徴するコピーが、
「You press the button, we do the rest.」
(あなたはボタンを押すだけ。あとは私たちがやります)
──という一文でした。
これは単なるマーケティングではなく、写真を“行為”から“サービス”に変えた歴史的な転換点でもありました。
写真が「製品」から「体験」に変わった
Kodakが行ったことは、写真を「撮る人のための道具」ではなく、「誰でも楽しめる体験」に変えることでした。
-
撮影はボタンひとつ。
-
現像はプロにおまかせ。
-
仕上がった写真は手元に届く。
このプロセスの簡略化によって、写真は専門家のものから、家族・子ども・旅行者など、一般市民すべての手に届く体験へと変わったのです。
しかもKodakは、カメラを「売り切る」のではなく、フィルムと現像サービスを主な収益源とすることで、カメラ本体の価格を抑える戦略を取りました。
つまり、写真がビジネスとして“繰り返される行為”になった瞬間でもあったのです。
「写真の民主化」──Kodakがつくった文化の広がり
ロールフィルムが技術的な変革だとすれば、Kodakのサービスモデルは文化的な変革でした。
写真は、記念日や旅行だけでなく、日常のなにげない風景や子どもの成長、友人とのひとときなどを残す手段へと変わっていきます。
かつて「肖像写真を撮る」という行為は、限られた特権的なものでした。
それがKodakによって、“誰でも思い出を残せる”という日常的な権利へと変わったのです。
この流れはやがて、写真が報道や広告、記録、芸術といった多様なジャンルに拡張される礎にもなっていきました。
つまりKodakは、**「写真の産業化」だけでなく、「写真の民主化」**を実現した企業だったのです。
第5章|Kodakが作った“記憶”のかたち──スナップショット文化とその広がり
写真が「芸術」から「日常」へと降りてきた
ロールフィルムとKodakの登場は、写真をそれまでの枠から解放しました。
かつての写真は、肖像や風景、または報道など、限られた目的のために使われるものでした。
構図を考え、照明を調整し、高価な機材で撮影する──写真は“プロの道具”だったのです。
しかしKodakは、写真を「記録するためのもの」ではなく、「日常を切り取る行為」へと再定義しました。
シャッターを押すのに、理由も目的もいらない。
その瞬間、写真は「特別」ではなく、「ふつう」の一部になったのです。
「思い出すため」から「残しておくため」へ
Kodakのフィルムサービスは、撮影から現像、焼き付け、プリントまでを一括で行うものでした。
この仕組みが、“プリントされた写真”を当たり前の存在に変えていきます。
それまでは、撮影と現像は専門技術であり、写真は手間をかけてようやく手元に届くものでした。
しかしKodakのサービスによって、「撮ったら写真が手に入る」ことが常識となったのです。
そして、人々は「残しておきたい」という気持ちのために写真を撮るようになっていきました。
これは、“目の前の出来事”を「未来に向けて保存する」という発想の変化でした。
家族写真、旅行写真、日常の1枚──「スナップショット」という文化の誕生
この変化が最もはっきりと表れたのが、いわゆる「スナップショット」というスタイルです。
-
子どもの誕生日に、家族全員が微笑む写真
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海外旅行での風景と友人の姿
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何気ない休日のひとこま
そうした写真は、芸術作品でも記録資料でもありません。
ただ、「そのとき、その場所にいた証」として、個人や家族のなかに残っていくのです。
このような撮影スタイルは、1920年代以降に「スナップショット・カメラ」という名称でも普及していき、
やがて文化として定着していきます。
つまりKodakは、技術ではなく“感情”の中に写真を定着させた企業だったともいえるのです。
「誰かに見せるため」の写真から、「自分のために残す」写真へ
この文化は、やがて「アルバム」「日記」「家族の記録」という形で家庭に根づいていきます。
写真は人に見せるためのものではなく、**“自分たちの人生を振り返る道具”**として使われはじめたのです。
これは、写真が「外に向かう」メディアから、「内側を大切にする」メディアに変わった瞬間でもあります。
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生活の中でカメラを持ち歩き
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その場の感情や思い出を切り取り
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フィルムが現像されて、プリントとして届く
この一連の流れの中で、人々は写真とともに生きるようになりました。
第6章|ロールフィルムがもたらした“写真の大衆化”とその未来への影響
写真は「一部の人の技術」から「誰もが持つ日常の道具」へ
ジョージ・イーストマンとKodakが開発したロールフィルムとそのビジネスモデルは、
それまで一部の専門家や上流層に限られていた写真文化を、誰もが楽しめるものへと解放しました。
写真を撮るという行為は、もはや特別な場面のためだけではなくなり、
日々の何気ない時間、子どもの成長、旅行の思い出などを残すための手段へと変わっていきます。
この変化こそが、「写真の大衆化」の本質でした。
「撮ること」と「残すこと」が当たり前になった社会
Kodakが提供したのは、単なるカメラやフィルムではありません。
それは、「誰でも撮れて、誰でも残せる」世界そのものでした。
この環境が整ったことで、「撮影」という行為が文化となり、写真が人の記憶に寄り添う存在になっていったのです。
たとえば──
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写真館で撮るものだった家族写真が、リビングで撮れるようになった
-
旅行の景色や食べ物を記録するという“旅の記憶”が生まれた
-
学校行事や日常のひとこまを、自然にアルバムに残す習慣が根づいた
これらはすべて、「写真を自分の手で残せる」ことが常識になった時代の産物です。
ロールフィルムの思想は、いまも私たちの中にある
今日、スマートフォンでの撮影や、クラウドへの保存、SNSでのシェアなど、写真をめぐる環境はデジタル化によって大きく変わりました。
しかしその根底には、「誰もが写真を撮ることができ、思い出を手軽に残せるべきだ」という考え方があります。
それはまさに、Kodakが最初に示したビジョンに他なりません。
「あなたはボタンを押すだけ。あとは私たちがやります。」
この一文に象徴されるように、写真を“技術”から“体験”に変えたロールフィルムの思想は、
100年以上経ったいまでも、私たちの暮らしの中にしっかりと息づいています。
そしてこの思想こそが、写真という文化がここまで広がった最大の原動力だったのです。
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