コンラート・ツーゼとは?世界初のプログラム制御コンピュータ「Z3」の誕生

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このブログはブログシリーズ「コンピュータの思想と誕生」⑥です。

まとめはこちらから▶コンピュータの思想と誕生|Z3・ENIAC・EDVACなど11の起点を比較解説

前の記事はこちらから▶⑤IBMとは?パンチカードで世界を制した“情報処理帝国”の正体


第0章|導入──「現代コンピュータ」は密室のドイツで誕生していた?


コンピュータの歴史といえば、誰もがまず思い浮かべるのはアメリカやイギリスの技術者たち。
ENIACやノイマン、チューリング──名だたる天才たちが第二次世界大戦前後に活躍した、壮大な科学史です。

しかし実はその裏側で、世界に先駆けて“プログラム制御の計算機”を完成させた人物が、当時のドイツに存在していました

その名は──コンラート・ツーゼ

彼が1938〜41年にかけて独自に開発した「Zシリーズ」のうち、**Z3(1941年完成)**は、
のちに「世界初のプログラム制御型計算機」として認定されることになります。

Z3がすごいのは、単に計算できたというだけではありません。

**「あらかじめ穿孔された紙テープを読み込み、演算を自動で実行する」**という、
まさに“現代的なコンピュータの原型”を備えていたのです。

なぜそんな革新的な装置が、長く歴史の中で忘れられていたのか?
そして、Z3が“世界初のプログラム制御コンピュータ”とされる理由とは?

この記事では、知られざる孤高の発明者コンラート・ツーゼと、彼のZ3がもたらした歴史的ブレークスルーに迫ります。


第1章|人物像──コンラート・ツーゼ、孤高のエンジニア精神


🎓 航空工学から始まった「計算嫌い」の技術者

コンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)は1910年6月22日、ドイツ帝国ベルリン近郊に生まれました。
青年期にはベルリン工科大学(Technische Hochschule Berlin)で土木工学を専攻し、1935年に卒業します。

当初は航空機設計の分野に進み、航空機工場で構造設計や応力解析などの業務に携わっていました。
しかし、そこで直面したのが膨大な計算作業──複雑な数式を繰り返し手計算で処理しなければならない非効率さでした。

「この作業、機械が代わりにやってくれればいいのに」

そんな思いが、彼の中に芽生えます。
当時の計算手段といえば、計算尺や手回し計算機などの単純な道具が中心でしたが、
ツーゼは「人間がやるような計算を、機械に自動で行わせることはできないか」と真剣に考え始めたのです。

この発想が、のちにZ1、Z2、そしてZ3へとつながる──
“自動計算機の原点”となる第一歩でした。


🛠️ 開発は「自宅の居間」で。少人数による手づくりの挑戦

ツーゼは1935年ごろから、ベルリン近郊の実家の居間を工房代わりに使い、最初の計算機「Z1」の開発に着手しました。
当初は純粋な機械式構造でしたが、試行錯誤を重ねるうちにZ2、Z3と改良を続け、ついには電気機械式のプログラム制御型装置に到達します。

この開発は、ほぼ個人レベルのプロジェクトでした。
彼は家族や数人の友人の協力を得ながら、自費で部品を調達し、手作業で組み立てを進めていきます。
当時のドイツでは、国家的な研究支援や大学・企業からの援助は限られており、ツーゼの試みはきわめて孤立したものでした。

それでも彼は、「人間の手作業を機械に置き換える」という信念のもと、静かに実験を続けていたのです。


🧬 ツーゼの思想──「人間の手をできるだけ排除したい」

ツーゼの開発思想は、初期の段階から一貫していました。
それは、「人間が操作する部分を極力減らし、計算の全過程を自動で進めたい」という考え方です。

彼は、計算作業における人為的な手間や入力ミスをなくし、
“命令を与えれば、あとは機械が自律的に処理を行う” という理想像を描いていました。

この発想は、後に登場するノイマン型コンピュータの中核──
「プログラムによって制御される自動演算」という考え方に非常に近いものでした。
ツーゼは、時代に先駆けて “自動演算”と“外部プログラム” を結びつけ、
人間の知的作業を機械化するというビジョンを早くから形にしていたのです。


第2章|Z3の仕組み──世界初の“プログラム制御”コンピュータ


🔧 Z1 → Z2 → Z3──居間から生まれた革新的な計算機

ツーゼの挑戦は、1938年に完成した「Z1」から始まりました。
Z1は完全な機械式構造を持ち、二進法と浮動小数点演算を試みるという、当時としては非常に先進的な設計でした。
しかし、部品精度の問題から安定して動作せず、実用機とは言い難いものでした。

その改良として1940年に登場したのが「Z2」。
演算部を電気リレーに置き換えることで、初めて電気機械式の制御を実現しました。
そして翌1941年、ツーゼはついに「Z3」を完成させます。
この装置は後に、**“世界初のプログラム制御型計算機”**の一つとして評価されることになります。


📐 約2,600個のリレーで構成された自動計算機

Z3は、およそ2,600個前後の電気リレーによって構成された電気機械式の計算機でした。
内部では二進法に基づく演算を行い、次のような機能を備えていました:

  • 二進法による内部演算(加算・減算・乗算・除算)

  • 浮動小数点形式による高精度な計算処理

  • 命令の順序に従って演算を自動で進める制御構造

  • 外部プログラム(穿孔テープ)の読み取りによる演算実行

当時主流だった「手動操作の加算機」や「パンチカード集計機」とは異なり、
Z3は演算・制御・出力をすべて自動で処理できる仕組みを持っていました。

これは、後のコンピュータへとつながる発想──
**“命令を理解し、自律的に計算を進める装置”**という概念の原点だったのです。


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📄 穿孔テープによるプログラム制御

Z3の最大の革新は、命令を紙テープにあらかじめ記録し、それを読み取って演算を実行する方式にありました。
この穿孔テープ(パンチテープ/パンチフィルム)には、演算命令やデータ指定などが記録されており、
テープを交換するだけでまったく異なる処理を実行できる仕組みになっていました。

これにより、Z3は特定用途の計算機ではなく、複数のプログラムを切り替えて使える汎用計算機として機能しました。
その思想は、のちのコンピュータ時代を先取りするものでした。


💡 Z3がもたらした“次元の変化”

Z3の登場は、当時の計算装置の概念を根本から変えました。

項目 従来の加算機・集計機 Z3
入力方式 手動操作・パンチカード 穿孔テープによる自動入力
演算方式 加減算中心 浮動小数点対応の四則演算
制御方式 人が操作 外部プログラムによる制御
再利用性 機能固定 プログラム交換による汎用性

ツーゼが生み出したZ3は、「計算する装置」から「命令を理解して動く装置」への進化を示した存在でした。
それは、戦時下の小さな工房から始まったにもかかわらず、後のコンピュータ時代の方向性を先取りした、静かな革命だったのです。


第3章|Z3が埋もれた理由──戦時下の孤独と破壊


🪖 ナチス政権下のドイツで、評価されなかった“革命”

Z3が完成したのは1941年。
しかし、その革新的な成果が当時のドイツ政府や軍で大きく注目されることはありませんでした。

ツーゼはZ3の成果を軍関係の研究部門に紹介しましたが、
当時の関心は主に兵器開発や暗号技術など、戦局に直結する分野に集中しており、
汎用的な演算装置の開発は優先事項と見なされませんでした。

また、ツーゼは大学や企業との強いつながりを持たなかったため、
Z3の存在はごく限られた関係者の間だけで知られるにとどまりました。
こうして、その画期的な発明は当時の社会に広く共有される機会を逃してしまったのです。


💣 オリジナルZ3はベルリン空襲で焼失

Z3は完成後、ベルリンの技術学校に保管されていましたが──
1943年12月の連合軍によるベルリン空襲で、オリジナル機は焼失してしまいます。

完成からわずか2年。
ツーゼが手作業で組み上げた世界初のプログラム制御計算機は、物理的にもこの世から姿を消しました。

この出来事こそが、Z3の名が長く歴史の中に埋もれてしまった最大の要因となります。


😶 孤立した天才と、遅すぎた評価

戦後、コンラート・ツーゼは自身の会社 「Zuse KG」 を設立し、Z4 や Z11 などの商用計算機を開発しました。
これらはドイツ国内の大学や研究機関で使用され、戦後ヨーロッパにおける計算機産業の基盤を築くことになります。

しかし、当時アメリカやイギリスでは ENIAC や Colossus など、国家予算による大規模な開発が進められており、
ツーゼの活動は規模・知名度の点でそれらに及ぶものではありませんでした。
結果として、国際的な「コンピュータの起源」に関する議論では、彼の名は長く影に隠れる形となります。

その後、ツーゼの功績が再び注目され始めたのは、戦後数十年が経った 1970年代以降
彼が残した設計図や記録をもとに再現機が制作され、研究者たちの再評価が進みました。
こうして、Z3 とツーゼの仕事はようやく**「現代コンピュータの形成に欠かせないもう一つの流れ」**として
国際的に知られるようになったのです。


🕯️ 「もしZ3が戦時中に知られていたら?」

Z3の完成はENIACよりも約4年早く、プログラム制御という発想でも先を行っていました。

しかし──

  • 発表されなかった

  • 公開されなかった

  • 実物が失われた

この“三重の喪失”によって、Z3は長い間「幻のコンピュータ」となってしまいました。

歴史に“もし”はありませんが、
もしZ3がアメリカやイギリスで誕生していたなら、
今日「Z3こそが現代コンピュータの原点」と語られていたかもしれません。


第4章|後世への影響──Z3が切り開いた“もうひとつの原点”


🕰️ 遅れてきた再評価──Z3の意義が明らかになるまで

Z3は1943年のベルリン空襲で失われ、その存在は長いあいだ忘れられていました。
しかし戦後、ツーゼが残した設計図や技術資料をもとに、1960年代前半には彼自身の手でZ3のレプリカが製作されます。
この再現機は現在、ドイツ技術博物館などで公開され、当時として驚くほど先進的な仕組みを備えていたことが確認されました。

さらに、1970年代以降になるとツーゼの業績が改めて見直され、
Z3は**「世界初期のプログラム制御式計算機のひとつ」**として国際的に位置づけられるようになります。
戦時下の個人開発という特異な背景を持ちながら、Z3は現代コンピュータの構造的ルーツとして再評価されていったのです。


🧠 ノイマン型とは異なる系譜──“外部プログラム制御”という設計思想

Z3は、のちに一般化する「ノイマン型コンピュータ」とは構造が異なっていました。
その理由は、プログラムとデータを同じ記憶装置に保持せず、明確に分けていたためです。

  • プログラム:穿孔テープ(パンチテープ)によって外部から入力

  • データ:手入力、または装置内部の固定領域に保持

この仕組みは「外部プログラム制御」と呼ばれ、ノイマン型のように内部メモリで命令を保持・分岐する方式とは違うものでした。
Z3には条件分岐の機能(ジャンプ命令)はなく、プログラムは順番通りに実行される構造でした。

それでもZ3は、**「命令を順に読み取り、演算を自動で進める」**という点で、現代のCPUに通じる考え方をすでに備えていました。
つまり、「機械が人間の手を離れて自ら処理を進める」という思想──それこそが、Z3が後世に伝えた最も重要な遺産だったのです。


🧬 ツーゼの思想はその後も脈々と受け継がれた

戦後、コンラート・ツーゼは自らの会社 「Zuse KG」 を設立し、Z4・Z11などの商用計算機を次々と開発しました。
また、1940年代半ばには**「プランカルキュール(Plankalkül)」**と呼ばれる独自のプログラミング体系を構想します。
これは、後に「高水準プログラミング言語の先駆」として評価される概念でした。

これらの成果は当時の国際的な標準には直接結びつきませんでしたが、
ヨーロッパにおける計算機開発の思想的基盤として、その後の情報処理や計算理論の発展に静かな影響を与えました。


🌍 現代から見たZ3の意義

Z3の価値は、単なる技術的成果にとどまりません。
それは「計算を自動化する機械」という枠を越え、“考えるしくみ”を設計した装置だったといえます。

Z3が実現していたのは、次のような基本概念でした:

  • 人の操作を介さずに処理を進める 「自律演算装置」

  • 命令列をあらかじめ与えて実行する 「プログラム制御」

  • 入力と演算を分離し、機械に“制御”という概念を導入

これらの要素は、のちにENIACやEDVACなど英米の開発で確立される
**「現代コンピュータの基本構造」**と多くの共通点を持っていました。

Z3は、異なる環境の中で独自にその発想へ到達した──
まさに“もうひとつの起点”として、今も世界の技術史の中で静かに輝き続けています。


第5章|まとめ──なぜZ3は「世界初のプログラム制御コンピュータ」と呼ばれるのか


電子式ではない、でも“コンピュータの本質”を備えていた

Z3は真空管ではなく、約2,600個の電気リレーによって構成されていました。
そのため、分類としては**電子式ではなく「電気機械式計算機」**にあたります。

この点だけを見れば、真空管を使用したENIACやABCのほうが「電子式コンピュータの始まり」と言えるでしょう。
しかし、Z3の革新性はハードウェアの種類ではなく、“計算を自動で制御する”という発想にありました。
ツーゼは、単に速い機械を作るのではなく、「命令に従って自ら動く装置」を構想していたのです。


自動演算・プログラム制御・汎用性──現代コンピュータの条件を満たしていた

1941年当時、Z3はすでに次のような機能を備えていました:

  • 四則演算を含む演算処理の自動化

  • 穿孔テープによるプログラム命令の外部入力と逐次実行

  • テープを交換することで異なる計算内容を実行可能(汎用性)

  • 二進法と浮動小数点演算による高精度な数値処理

これらの要素は、今日のコンピュータが備える構造とほぼ同じ考え方です。
つまり、ハードウェアは旧式でも、設計思想はすでに現代的だったのです。


ENIACより4年早く、“命令を読む機械”を実現していた

Z3の完成は1941年。
これはENIAC(1945年)やノイマンによるEDVAC設計(1945年)よりも数年早い時期でした。

さらに、アタナソフ=ベリー計算機(ABC)が特定の数値解析に特化していたのに対し、
Z3はプログラム内容を変えることで多様な計算を行える汎用計算機でした。

この「命令を読み取り、自律的に演算を行う」という構造こそ、
Z3が**“世界初のプログラム制御型コンピュータ”のひとつ**と呼ばれる理由です。


🕊️ 埋もれていたもう一つの原点を見つめなおす

Z3は歴史の転換点に立ちながらも──

  • 国家的な支援を得られず

  • 戦火で失われ

  • 海外に知られる機会が少なかった

という不運に見舞われました。

それでも今、Z3は**「もうひとつのコンピュータの始まり」**として再評価を集めています。
私たちが使うスマートフォンやPCの根底にある“命令を理解して動く仕組み”は、
ベルリンの片隅でひとりの青年が「計算を少しでも楽にしたい」と考えた瞬間から始まっていたのです。


▶次に読みたい記事 「コンピュータの思想と誕生」⑦アタナソフとベリーが開発した世界初の電子計算機ABCとコンピュータ誕生の真実


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