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このブログはブログシリーズ「コンピュータの思想と誕生」⑩です。
まとめはこちらから▶コンピュータの思想と誕生|Z3・ENIAC・EDVACなど11の起点を比較解説
前の記事はこちらから▶⑨ジョン・フォン・ノイマンとは?ノイマン型アーキテクチャと現代コンピュータの原型を解説
第0章|導入──「電子で計算する」なんて、当時はSFだった
💡 世界初の“電子式コンピュータ”ってどういうこと?
私たちが毎日使っているパソコンやスマートフォン。
その中では、光や電気の信号が目にも止まらぬ速さで計算をこなしています。
しかし──
そんな「電子で計算する」という発想が、一般にはまだ存在していなかった時代がありました。
1940年代初頭までは、コンピュータといえば歯車やレバーで動く機械式の計算機、
あるいは多数の人間(とくに女性たち)が手作業で数式を処理する**“人力コンピュータ”**が主流だったのです。
当時、科学や軍事の現場では「計算速度」が最大の課題でした。
🚀 そして登場したのが「ENIAC(エニアック)」
そんな時代に、アメリカ陸軍が極秘で開発を進めていたのが、
世界初の電子式・汎用・高速計算機──**ENIAC(エニアック)**です。
正式名称は Electronic Numerical Integrator and Computer。
直訳すれば「電子数値積分計算機」。
それまでのどんな装置よりも高速で、
多様な計算に応用できる“汎用マシン”として登場しました。
そして何より、「電気の力だけで演算を行う」という発想自体が、当時としてはまさに科学小説のような革命だったのです。
🔌 歯車でもない。レバーでもない。真空管だ。
ENIACは内部に約17,468本の真空管を備え、
電圧のオン/オフによって「0」と「1」を表現するデジタル方式を採用していました。
この巨大な装置は、当時の人々から**“電子頭脳”**と呼ばれました。
それはまさに、未来を先取りした機械だったのです。
🧠 けれど──まだ“ノイマン型”ではなかった
興味深いことに、このENIACは構造的には**“ノイマン型アーキテクチャ”ではありません**でした。
それでもENIACは、
「電気信号だけで汎用的な計算ができる」という新時代の扉を開いたのです。
この“非ノイマン型”の仕組みこそが、後にジョン・フォン・ノイマンが提案する**「EDVAC設計草案」──
すなわち現代コンピュータの原型**へとつながっていきます。
📘 この記事でわかること
この記事では、ENIACの開発背景、技術構造、実戦での運用、
そして女性プログラマーたちの活躍から、ノイマンへの思想的接続までを順を追って解説します。
「最初の“本気のコンピュータ”とは何だったのか?」
──その答えが、あなたのスマホの中に続く道筋を照らしているのです。
第1章|開発者たち──エッカートとモークリーの挑戦
🧠 数学教師と電気工学者、2人の若き研究者
ENIACを開発したのは、アメリカ・ペンシルベニア大学ムーア電気工学部の研究者、
ジョン・モークリー(John W. Mauchly) と J・プレスパー・エッカート(J. Presper Eckert Jr.) です。
モークリーは物理学と気象学を専門とする教育者タイプで、数学理論にも精通していました。
一方のエッカートは電気工学の専門家で、配線や真空管回路の設計に卓越していました。
2人は1941年、大学内の研究プロジェクトで出会い、
「電子の力で計算を自動化する」という、当時としては大胆な構想を共有します。
まだ“コンピュータ”という言葉が一般化していなかった時代に、
彼らはすでに 「電気による汎用演算装置」 の必要性を直感していたのです。
💣 第二次世界大戦と“計算の危機”
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍では砲弾の**弾道表(firing tables)の作成が急務でした。
発射角・気温・風速など、複雑なパラメータを組み合わせて計算する作業はすべて手作業。
この任務を担っていたのが、いわゆる「人間コンピューター」**と呼ばれる計算手たちでした。
1発分の弾道計算に数日、条件違いのバリエーションを揃えるには数週間を要することもあり、
膨大な時間と人員を必要としていました。
この“計算のボトルネック”を解消するため、陸軍はペンシルベニア大学に
**「より速く、より正確に」**計算できる新しい装置の開発を依頼します。
💸 軍からの出資と、ENIACプロジェクトの始動
1943年、アメリカ陸軍の**弾道研究所(Ballistic Research Laboratory, BRL)**は、
ジョン・モークリーとJ・プレスパー・エッカートの構想を正式に採用し、
**ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)**の開発を委託しました。
この計画は、弾道計算を自動化し、戦時中の研究を加速させることを目的とした国家プロジェクトです。
開発にはモークリーとエッカートのほか、大学の研究員・技術者・軍関係者など数十名規模の専門家チームが関わりました。
当初は「真空管は壊れやすく、長時間の動作には向かない」と懐疑的な声も多かったものの、
エッカートの精密設計と高品質な部品選定、冗長化された回路構成によって、
ENIACは当時としては驚異的な安定性と演算速度を実現しました。
👩💻 「ENIAC Girls」──女性たちの知られざる貢献
ENIACの構築と運用において、特筆すべき存在が6名の女性プログラマーです。
ジーン・バーティック(Jean Bartik)
ベティ・ホルバートン(Betty Holberton)
フランセス・スペンス(Frances Spence) など
彼女たちは、膨大な配線とスイッチによって制御される複雑な機構を理解し、
世界で初めて**「プログラムを作り、実行する」**という実務を担いました。
のちに彼女たちは「ENIAC Girls」と呼ばれ、
近年ではコンピュータ史における先駆的存在として再評価されています。
🔧 2人の挑戦は、やがてノイマンとの出会いへ
ENIACの開発が進む中で、のちに「ノイマン型アーキテクチャ」を提唱する
ジョン・フォン・ノイマンがこのプロジェクトに関心を寄せ、協力するようになります。
しかし当初のENIACは、あくまでモークリーとエッカートによる“実践的な装置開発”でした。
彼らの目標は、理論構築ではなく「いますぐ動く計算機」を実現すること。
その結果、1945年の完成時には──
**世界で初めて“電子で動く汎用計算機”**というマイルストーンを打ち立てたのです。
第2章|技術構造と特徴──ENIACの“非ノイマン型”構造とは?
💡 ENIACの何が“すごかった”のか?
ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)が
「世界初の電子式汎用計算機」として注目された理由は、大きく3点にまとめられます。
-
電子信号で演算を行えた(真空管による論理演算)
-
多様な演算に対応する“汎用性”を備えていた
-
人間の手計算を数千倍上回る高速処理能力を持っていた
それまで歯車やリレーで動いていた計算機とは異なり、
ENIACは純粋に電子信号だけで動作する、まさに“電気の頭脳”でした。
この発想そのものが、1940年代当時としては革命的だったのです。
🔌 ENIACの内部構造──まるで“電子の工場”
ENIACは、複数の電子回路モジュールを組み合わせて構成されたモジュラー型の電子計算機でした。
内部には演算や制御、入出力を担当する装置が分離され、相互にケーブルで接続されていました。
| 構成要素 |
役割 |
| 累算器(Accumulators、20台) |
10桁の十進数を扱い、加減算や一時的な結果の保持を行う中核ユニット |
| 乗算・除算回路 |
累算器を組み合わせて、より複雑な演算処理を実行 |
| 制御ユニット |
命令の順序・タイミング・信号の伝達を制御 |
| パンチカード装置 |
入力と出力を行うための紙ベースのデータ媒体 |
| 真空管(約17,468本) |
電圧のオン/オフで「0」「1」を表現し、演算や制御信号を電子的に切り替えるスイッチとして機能 |
これらの装置は金属製フレームに組み込まれ、総重量は約30トン、
装置を並べた際の全長はおよそ25〜30メートルに達したと報告されています(University of Pennsylvania/IEEE Spectrum)。
内部には大量のケーブルやスイッチが張り巡らされ、
稼働時には真空管が橙色に光り、ファンが唸る様子が記録写真に残されています。
その光景は、まるで“電子が流れる工場”のようだったと伝えられています。
🔁 ENIACはなぜ“非ノイマン型”だったのか?
後に一般化する「ノイマン型アーキテクチャ」では、
命令とデータを同じ記憶装置に格納して順次処理します。
しかしENIACは、それとは異なる**“非ノイマン型”構造**を採用していました。
非ノイマン型の特徴(ENIACの場合)
-
プログラムを配線で実装
→ 配線盤のケーブルとスイッチを組み替えて命令を構築。
-
命令とデータが分離していた
→ データは累算器に保持、命令は操作盤や信号パルスで制御。
-
タイミングパルスによる逐次制御
→ 高速動作は可能だが、柔軟性に乏しい設計。
つまり、プログラムとは「配線図」であり、
プログラミングとは「工具を持って回路を組み替える作業」そのものでした。
⚙️ “プログラムの切り替え”が大仕事だった
ENIACで新しい計算を行うたびに、技術者たちは次のような手順を繰り返しました。
-
ケーブルを抜き差しし、スイッチを組み替える
-
回路図を参照しながら物理的に命令回路を再構成する
-
設定後、誤結線や信号遅延を一つひとつ検証する
小さな計算の変更でも、準備に数日を要することもありました。
現代のように「再生ボタン」で即時に実行できる時代とはまったく異なる、
“手で組むプログラム”だったのです。
⚡ それでも圧倒的な速さと精度を誇った
構造的な制約を抱えながらも、ENIACの処理速度は当時としては群を抜いていました。
この速度は、同時代の機械式計算機を大きく上回るものでした。
その結果、ENIACは軍の弾道研究をはじめ、気象予測や原子物理の計算など、
複数の分野で実際に成果を上げています。
ENIACは、「遅いが柔軟な機械」から「速くて精密な電子頭脳」へ──
計算機の概念を根本から変えた、転換点となったのです。
📌 非ノイマン型の限界──次なる発想の出発点
ENIACの開発過程で、この配線式プログラムの限界が明確になります。
毎回再配線を行う手間と非効率さを見たジョン・フォン・ノイマンは、
「命令もデータも同じ記憶装置に置けばよい」という新しい原理を提案しました。
それが、のちに**「ノイマン型アーキテクチャ」**として知られる
**EDVAC設計草案(First Draft of a Report on the EDVAC, 1945)**です。
この瞬間から、コンピュータの思想は「配線する機械」から
「記憶し、書き換える機械」へと進化を始めました。
第3章|実戦投入と軍での活用──弾道計算から核計画まで
💣 計算が遅いと、戦況が動く──1940年代の現実
第二次世界大戦中、アメリカ陸軍が直面していた最大の課題のひとつが、**弾道表(firing tables)**の作成でした。
弾道表とは、砲弾を「どの角度・どんな気象条件で発射すれば、どこに着弾するか」を示す早見表です。
この作成には膨大な微分方程式の計算が必要で、当時はすべて人の手によって行われていました。
当時の状況をまとめると──
このままでは「計算が終わる前に戦況が変わる」。
その切実な問題意識こそが、高速計算装置──ENIACの誕生を後押ししました。
🎯 ENIACの初任務──“砲弾の軌道を電気で解く”
ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は、完成後まず弾道表の作成を任されました。
その結果、従来は数週間かかっていた計算を数時間から十数分で完了できたとされています。
この成果により、アメリカ陸軍はENIACの有用性を高く評価し、以後の改良開発にも強い関心を示しました。
ENIACは、「演算能力そのものが戦略になる時代」の到来を象徴する最初の装置となったのです。
🧪 戦後の活用──核兵器研究への応用
ENIACは1945年に完成し、実際に稼働を始めたのは戦争終結後でした。
しかし戦後すぐに、アメリカ政府の科学研究プロジェクトに参加し、核関連の数値計算にも応用されたことが記録されています。
-
爆発時の衝撃波や流体力学のシミュレーション
-
熱核反応や爆縮レンズ設計に関わる数値積分
これらの計算は、理論物理学者ジョン・フォン・ノイマンやロスアラモス研究所の科学者らと連携して行われ、
ENIACは「高速に数値解を求める電子計算装置」として、戦後科学技術の進展に寄与しました。
当時これらの研究は軍事機密として扱われていましたが、後に一部が明らかになっています。
👩💻 ENIACを動かしたのは“女性たちの技術力”
ENIACの運用には、訓練を受けた女性技術者の存在が欠かせませんでした。
彼女たちは回路構造を理解し、複雑な配線図を読み解き、
まるで「機械を手でプログラムする」ようにENIACを制御していました。
この作業は、現代でいえばハードウェア層でソフトウェアを実装するようなもので、
ENIACの精密な演算は、彼女たちの手作業と知識に支えられていたのです。
彼女たちはのちに「ENIACプログラマー」「ENIAC Girls」と呼ばれ、
コンピュータ史における最初期のプログラマーとして再評価されています。
📈 数字で見るENIACの軍事的インパクト(参考値)
| 項目 |
手計算(当時) |
ENIAC |
| 弾道計算 |
数日〜数週間 |
数時間〜十数分 |
| 必要な人員 |
数十人規模の計算班 |
数名のオペレーターで運用 |
| 計算精度 |
ヒューマンエラーの影響大 |
電子演算で高い再現性 |
| 条件変更・再計算 |
実質的に困難 |
条件を変えて短時間で再実行可能 |
この性能差は単なる効率化にとどまらず、
**「科学研究や軍事判断のスピードそのものを変えた」**と評価されています。
第4章|ノイマンとの接続──“ENIACはノイマン型を生む母体だった”
📍 ノイマン、ENIACチームと出会う
1944年、アメリカ・ニューメキシコ州のロスアラモス研究所。
ここは原子爆弾の研究を進めていた「マンハッタン計画」の中枢であり、当時の世界最高峰の科学者たちが集結していました。
その研究の一環として、膨大な数値計算を効率化する手段が求められていました。
このとき、ペンシルベニア大学で開発が進んでいたENIACの存在が、研究所にも知られるようになります。
当時、ロスアラモスの軍事アドバイザーとして活動していたのが、数学者**ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)**です。
理論物理や数理論理に精通していた彼は、数値計算の自動化に強い関心を持っており、ENIACの仕組みに深く興味を示しました。
やがてノイマンは、ENIACを開発していたモークリーとエッカートのチームと接点を持ち、アドバイザーとして参加します。
ここで、「理論を極めた数学者」と「実働を担うエンジニアたち」が出会ったのです。
✍️ 「First Draft」──理論が形になる瞬間
1945年、ノイマンはENIAC開発チームとの議論をもとに、1本の報告書をまとめます。
そのタイトルが、『A First Draft of a Report on the EDVAC(EDVAC設計草案)』。
この文書の中でノイマンは、当時の計算機ではまだ実現していなかった革新的な概念を提示しました。
-
命令(プログラム)とデータを同じ記憶装置に保存する
-
メモリ上の命令を順に読み出し、演算を自動的に進める
-
演算装置・記憶装置・制御装置を明確に分離して設計する
これらの考えを体系化したのが、現在も使われている基本構造──
**ノイマン型アーキテクチャ(von Neumann architecture)**です。
つまり、ノイマンは「ENIACの次にどうあるべきか」を論理構造として定義し、
“コンピュータを思想として設計する”という時代を切り開いたのです。
🔧 ENIACの“限界”が、ノイマンの発想を生んだ
ノイマンがENIACを研究する中で気づいたのは、構造上のいくつかの課題でした。
これらの制限を前に、ノイマンは発想を転換します。
「命令もデータも同じメモリに置き、順に読み出せばよい」
このシンプルな考え方が、のちに**プログラム内蔵方式(stored-program concept)**と呼ばれる原理です。
つまり、ENIACの「不便さ」こそが、次の世代の計算機構想を生み出した出発点でした。
🛠 ENIACは“進化するマシン”だった
ENIACは完成後も改良が続けられ、1948年には一部でノイマン型に近い構造へ改修されます。
パンチカードによる手動入力ではなく、命令列をメモリ的に扱う方式が導入され、
条件分岐やジャンプ処理も可能になりました。
これは、ハードウェアとして稼働していたENIACに、
「記憶されたプログラムを順に処理する」という要素を後付けした形で、
当時としては極めて先進的な実験的試みでした。
つまり、ENIACは**「途中で進化した唯一の初期コンピュータ」**と言ってよい存在だったのです。
📌 ENIACは「ノイマン型を生む母体」だった
一般的に「最初のコンピュータ=ノイマン型」と言われがちですが、正確にはこう整理できます。
-
ENIACは、実際に動く“電子式計算機”として最初に完成した装置
-
ノイマンはその実機を見て、理論的な構造モデルを定義した人物
-
その理論が、EDVAC → IASマシン → 現代のコンピュータへと継承された
つまりENIACは、「ノイマン型アーキテクチャが生まれるための現場」であり、
**“実機と理論が出会った分岐点”**だったのです。
第5章|まとめ──ENIACがもたらした「スピードの時代」
⚙️ ENIAC以前:計算とは“人間が行う作業”だった
20世紀前半まで、計算は完全に人間の手に委ねられていました。
戦争、科学、天文学、建築、統計──どの分野でも「人が計算する」ことが当たり前だったのです。
当時の道具は、計算尺、アバカス(そろばん)、筆算表など。
17世紀以降に登場した機械式計算機(パスカル、オドナーなど)もありましたが、
その速度は依然として人力に近く、膨大な作業を要しました。
第二次世界大戦中、弾道表や科学計算を担当した人々(当時は多くが女性計算者)は、
数千回の手計算を繰り返し、**「時間との戦い」**を日常としていました。
こうした状況に革命を起こしたのが──**ENIAC(エニアック)**です。
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⚡ 「速度」が、計算の意味を変えた
ENIACは、それまでの常識を根底から覆しました。
-
加算:0.2ミリ秒
-
乗算:2.8ミリ秒
-
1秒間に数千回の演算
-
人間の計算能力の数百倍以上
これは、単なる速さではありません。
「これまで不可能だった計算が、現実的な時間内で完了する」という概念の転換でした。
例えば、弾道表の作成や科学シミュレーション。
かつて数週間を要していた処理が、わずか数時間で完了する。
つまり、**「計算結果がすぐに行動へ結びつく時代」**が始まったのです。
ENIACは、人間の知的活動に“スピード”という次元を加えました。
その瞬間、計算は「思考の延長」ではなく、「行動のための即応ツール」へと変わったのです。
🧠 ENIACはノイマン型ではなかった──それでも“すべての出発点”だった
ENIACは、現在のコンピュータとは構造が異なる“非ノイマン型”でした。
命令はメモリに保存されず、プログラム変更のたびに人が物理的に再配線する必要があったのです。
しかし、この不便さこそが次の発想を生み出しました。
-
「命令もデータもメモリに入れたい」
-
「条件分岐やループ処理を可能にしたい」
-
「ソフトウェアという概念を導入したい」
この課題意識を受け継いで、ジョン・フォン・ノイマンが**プログラム内蔵方式(stored-program concept)**を提案。
ENIACはその理論の“きっかけ”となり、EDVAC、IASマシン、そして現代のパソコンへと連なっていきました。
📌 ENIACの本当の価値──“技術”ではなく“思想”の進化
ENIACの価値は、単に「速かった」「電子的だった」という技術的要素だけではありません。
それはむしろ、「コンピュータとは何か?」という哲学的問いを生んだことにあります。
-
どうプログラムすべきか?
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誰が設計し、誰が操作するのか?
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機械に“思考”はできるのか?
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人間の判断と機械の計算を、どう共存させるのか?
これらの問いは、1946年のENIAC稼働時点ですでに芽生えていました。
つまりENIACは、人類が初めて**「思考を機械に委ねる可能性」**を実感した瞬間でもあったのです。
🚀 ENIACから続く“速度と知性”の系譜
スマートフォン、クラウド、AI、量子コンピュータ──
どんなにテクノロジーが進化しても、その源流にはENIACの思想が流れています。
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人間の能力を拡張する装置としてのコンピュータ
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プログラム可能な知的構造としてのマシン
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情報と命令の統合という発想
ENIACは単なる「始まりのマシン」ではなく、
今もなお私たちの文明を支える思考の原型なのです。