江戸の旗振り通信とは?日本最初の“光通信ネットワーク”が生んだ通信革命【世界最速の情報伝達システム】

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🌄 第0章|導入──江戸の山から光が走った!?


🏮 江戸にも“光通信”があった

電気も電波もない江戸時代。
そんな時代に――山の上から旗を振って情報を送る「光通信」が存在したのをご存じですか?

それが、旗振り通信(はたふりつうしん)
旗の動きだけでメッセージを送り、遠く離れた町に数分で情報を届けるという、
まさに日本最初の通信ネットワークです。

現代のインターネットやモールス信号の“ご先祖”とも言える仕組みが、
実は江戸時代の大阪や播磨の山々で生まれていました。


📡 旗を振るだけで情報が届く──江戸の光ネットワーク

旗振り通信の原理はとてもシンプル。
旗を「右・左・上下」に動かして符号化し、
次の山頂の“旗振り場”がそれを望遠鏡で読み取り、
さらに次の中継所へと伝えていく――。

この中継を数十カ所リレーすることで、
たった数十分で100km以上の距離をカバーできました。

現代で言えば、Wi-Fiルーターを山の上に並べたようなもの。
江戸の人々は、なんと**「光」と「人の目」だけで通信インフラ**を作り上げていたのです。


🏃‍♂️ 飛脚より“桁違い”に速い──最速で大阪→江戸8時間

旗振り通信が登場する前、情報を運ぶのは「飛脚」でした。
大阪から江戸まで約500km、最速でも3日。
しかし旗振り通信を使えば、同じ情報がわずか8時間で到達したと伝えられています。

「旗が振られれば、江戸の米相場が動く」

そう言われるほど、旗振り通信は経済の動きを左右しました。
現代のSNS速報やニュース速報に匹敵するスピードです。


💡 技術が時代を追い越した瞬間

当時の旗振り通信は、
堂島(大阪)の米商人たちが利益を守るために作り出した民間技術
幕府が作ったものではなく、商人の知恵と野心から生まれた“草の根インフラ”でした。

そしてこの「速すぎる通信」は、のちに幕府の統制を揺るがす存在となります。
速さは力であり、同時に恐れでもあった――
江戸の旗振り通信は、まさにテクノロジーが社会を先取りした最初の瞬間だったのです。


🔎 このブログでわかること

この記事では、次のような疑問を解き明かしていきます👇

  • 旗振り通信とは?どうやって光で通信したのか?

  • どれくらい速かった?どんな仕組み?

  • なぜ幕府はそれを禁止したのか?

  • 世界の通信史の中で、日本の旗振り通信はどんな位置づけ?

  • そしてなぜ“光通信”として再び評価されたのか?


江戸の山に立った一人の旗振り師。
その手に握られた旗が、やがて**日本の通信史を変える「光」**となった――。

次章では、そんな旗振り通信の仕組みと原理を、もう少し詳しく覗いてみましょう。


🏯 第1章|旗振り通信とは?──江戸の光通信システム


🏳️ 江戸の「光ネットワーク」

「旗振り通信(はたふりつうしん)」とは、
江戸時代の山の上から山の上へ、旗の動きだけで情報を送る光通信システムのこと。
昼間は白や赤の旗を使い、夜は松明や提灯を振って火の光で合図を送りました。

電気も電線もない時代、江戸の人々は**“目で見る通信”**を発明していたのです。


🔭 通信の仕組み──山から山へリレー中継

旗振り通信の基本構造は、こうです👇

  1. 高台や山頂に**旗振り場(中継所)**を設ける

  2. 旗振り役(旗振り師)が旗を上下左右に振る

  3. 次の中継所が望遠鏡でその動きを確認

  4. 読み取った符号をそのまま次へ“複製送信”

これを何十回もリレーすることで、
大阪から広島、あるいは大阪から江戸まで情報を伝えました。

まさに「人間の光ファイバー」。
旗の光が、見通しの限界まで繋がっていく仕組みです。


💬 どんな情報を送っていたの?

主な通信内容は、主に**米相場(こめそうば)**の速報。
堂島米会所で毎日変動する価格を、京都・岡山・江戸へ伝えるために使われました。

ほかにも──

  • 船の到着報告(「荷が着いたぞ!」)

  • 天候や海況の急変

  • 緊急連絡(異国船の目撃など)

など、江戸後期には「地域のインフラ」としても機能していたことが記録に残っています。


🪶 信号はどうやって表す?──旗の“言葉”

旗振り通信では、旗の位置や動かし方そのものが“文字”や“数字”の意味を持っていました。
旗の右振りは十の位、左振りは一の位を表し、たとえば右を2回・左を4回振れば「24」。
数字を組み合わせて言葉を伝える仕組みです。

誤信号を防ぐために、一定ごとに**「合い印」(チェック信号)を入れ、
さらに暗号化のために
「台付(だいつけ)」**と呼ばれる符号のずらしを使っていました。
これは現代でいえば“共通鍵”のような安全対策。
旗振り師たちは、いろは順を数字に対応させた符号表を暗記し、
1文字ごとに旗を振りながら正確に情報を送り続けました。

熟練者でも1メッセージあたりに要する時間はおよそ1分。
しかし複数の中継所が同時にリレーすることで、
大阪から江戸までわずか8時間前後で情報が届いたといわれます。
飛脚が3〜5日かけていた距離を、一日もかからず結ぶ。
まさに、旗が言葉を持ち、光が通信を生んだ瞬間でした。


🌞 昼と夜で違う“通信モード”

旗振り通信は、時間帯によって使う「光のかたち」が変わりました。

昼間は、背景とのコントラストを考えた白・赤・黒などの旗を使用。
旗の色と動きの組み合わせで信号を見分けました。

夕暮れ以降は、旗の代わりに**松明や提灯を振る「火振り通信」**へ切り替え。
夜空に揺れる光が、山から山へと次々にリレーされていきます。

ただし、霧や雨の日は視界が遮られるため通信を中止し、
翌日の晴天を待って再開するのが常でした。

こうした天候依存の弱点はありましたが、
それでも晴れた日の伝達速度と正確さは驚異的で、
当時の人々からは**「天気さえ良ければ電信にも劣らない」**と評されたほどです。


🧭 通信距離と地形の工夫

旗振り通信の見通し距離は平均で約3〜5里(12〜20km)
この距離を確保するために、旗振り場は
海沿いの岬・山の尾根・高台の神社など、視界が開けた場所に設けられました。

有名なのは「旗振山(兵庫県)」や「高取山(神戸市)」など。
名前の通り、今もその地名に“通信の記憶”が刻まれています。


⚙️ 旗振り場のリアルな風景

  • 小さな櫓(やぐら)や見張り小屋

  • 中央には旗竿と交換用の旗

  • 望遠鏡・火鉢・筆記板

  • 昼夜交代制の旗振り師

彼らは風雨にさらされながらも、
「一文字のミスが何万両の損失につながる」と言われるほど責任重大な仕事を担っていました。

中継が一つでも途切れれば、通信全体が止まる。
まさに、**江戸のインターネット管理者(ネットワークオペレーター)**だったのです。


🕰️ 旗振り通信が作った「時間の共有」

飛脚のように日単位で動いていた通信を、
分単位に短縮した旗振り通信は、
江戸の社会に「同時性」という新しい概念をもたらしました。

「大阪で旗が振られると、京都でも同じ時刻に相場が動く」
この感覚は、それまでの“時間と距離の常識”を変え、
やがて日本の近代通信思想へとつながっていきます。


💰 第2章|起源──商人たちが作った“民間の通信網”


🏦 情報が金に変わる時代へ

江戸時代後期。
日本では、**「情報=お金」**という考え方が生まれつつありました。

その中心にあったのが、大阪・堂島にあった「堂島米会所(どうじまこめかいしょ)」。
ここは今でいう「大阪証券取引所」のような存在で、
毎日、日本中の米価(こめか)がここで決まりました。

当時、米は給料の代わりであり、税の基準でもあったため、
米相場が変われば──武士の生活も、商人の取引も、庶民の暮らしもすべてが揺れたのです。

だからこそ、誰よりも早く相場を知ることが、莫大な利益につながりました。


⚡ 早い者勝ちの経済戦争

堂島の商人たちは、毎日夕方に決まる米の値段を、
いかにして京都・江戸に“即日”で知らせるかに命を懸けました。

当初は「飛脚(ひきゃく)」が走って伝えていましたが、
大阪から江戸まで約500km。最速でも3日間はかかります。

「3日後に届いた情報では、もう遅い」
そう気づいた商人たちは、自らの手で**“光通信ネットワーク”**を作り始めたのです。


🗾 はじまりは大阪の山から

旗振り通信の起源は、**18世紀前半〜中葉(およそ1740〜1760年代)**にさかのぼります。
当時の大阪では、堂島米会所の相場情報をいち早く伝えるために、
商人たちが自ら山の上に立ち、旗を使って合図を送っていたといわれています。

最初期の通信ルートは、大阪から兵庫・明石・赤穂・岡山・広島方面へと続く海沿いの高台。
たとえば、現在も地名として残る**旗振山(神戸市)高取山(兵庫県)**は、
このときに中継拠点として利用された場所です。

旗を使った通信は、船の到着や天候の変化を知らせる港の通報手段としても役立ち、
やがて陸路と海路を結ぶ「光のリレー網」として発展しました。

この時期の記録では、摂津や播磨の山々に望遠鏡を備えた**見張り櫓(やぐら)**が設けられ、
複数の地点を直線的に見通せるように整備されていたことが確認されています。

旗振り通信は、幕府や藩が整備したものではなく、
民間の商人たちが経済の必要から生み出した独自の通信技術
のちに広島や江戸方面へと拡張され、
江戸時代後期には日本各地の相場を結ぶ“光のネットワーク”へと進化していきました。


👨‍💼 商人が作った「私設ネットワーク」

旗振り通信を運営していたのは、
幕府でも藩でもなく、民間の商人たちです。

堂島の米商人が資金を出し、
中継所の旗振り師には日当を支払い、
符号表を共有してネットワークを管理していました。

つまり、旗振り通信は**“日本初の民間通信企業”**のような存在。
情報を独占した商人たちは、
誰よりも早く相場を知り、取引を先回りできる立場を築いたのです。


📡 “紀伊国屋文左衛門”説と伝説の起点

旗振り通信の起源には、もう一つ有名な伝承があります。
それが豪商「紀伊国屋文左衛門」が旗を使って相場を伝えたという逸話です。

これは史実というより象徴的な物語ですが、
「商人が旗で情報を操る」という発想そのものが、
当時すでに人々の間にあったことを示しています。

江戸の人々にとって、“旗”は単なる布ではなく、
情報を運ぶ光のメッセージになっていたのです。


🏗️ 技術の体系化──旗が言葉を持った

最初期の旗振り通信は単なる「目印」でしたが、
やがて符号化が進み、システムとして完成します。

  • 旗の動きと位置で「数字」や「単語」を表す

  • 通信の開始・確認・終了に専用信号を導入

  • 中継ごとに「復唱・再送」を行う安全設計

  • 誤信号を防ぐための“チェック動作”を制定

このように、19世紀初頭には、
現代のデータ通信プロトコルに近い仕組みがすでに確立していました。


📜 江戸後期に確立した“通信インフラ”

文化・文政(1804〜1830)期には、旗振り通信が完全に制度化。
旗振り師の職業が定着し、
中継点の維持費は共同出資でまかなわれるなど、
社会システムとして機能していました。

このころには「大阪〜広島」「大阪〜江戸」などの長距離通信が可能となり、
わずか数時間で経済情報が動く時代が訪れたのです。


🕊️ 幕府ではなく、商人が作った“江戸のインターネット”

旗振り通信の最もユニークな点は、
これが国家プロジェクトではなく、
商人のアイデアと出資によって成立したことです。

ヨーロッパのセマフォ通信が軍や政府によって整備されたのに対し、
日本では経済の現場から自然発生的に生まれた。

💡「利益のために技術を磨いた」

それが江戸の商人たちの革新性であり、
この旗振り通信こそが、民間イノベーションの原点でした。


⚡ 第3章|なぜ“世界でも屈指の通信速度”を誇ったのか?


🏃‍♂️ 飛脚が3日、旗振りは8時間

江戸時代の通信といえば「飛脚(ひきゃく)」が主役でした。
大阪から江戸までの距離は約500km。
幕府公認の「公儀飛脚」でも片道6日、
最速の「早飛脚」でも約3日はかかりました。

ところが旗振り通信が登場すると、
この常識が一気にひっくり返ります。

📡 大阪から江戸まで、最短わずか8時間。

それまで3日かかっていた情報が、
わずか半日で届くようになったのです。

この驚異のスピードが、江戸の経済構造を根底から変えていきました。


🔭 “人間の光ファイバー”という仕組み

旗振り通信がここまで速かった理由は、
人と光を組み合わせた中継ネットワーク構造にあります。

  1. 各中継所(旗振り場)は約3〜5里(12〜20km)間隔で配置

  2. 各地点が“見通し線”でつながるように地形を選定

  3. 一つの旗振り場が信号を受信→即座に次へ中継

  4. 信号伝達は1回あたり30〜60秒以内

つまり、情報は山から山へ、
光の速さと人間の反応速度でリレーされていったのです。

現代風にいえば、

“江戸時代の分散型ネットワーク”=旗振り通信。

中央集権ではなく、すべての中継点が独立して働いていた点も特徴的です。


⏱️ 通信速度の実測イメージ

当時の通信リレーは以下のような速度で動いていました。

区間 距離 所要時間(晴天時) 備考
大阪 → 京都 約50km 約20分 5〜6箇所中継
大阪 → 岡山 約170km 約1時間半 山頂中継12〜15箇所
大阪 → 広島 約300km 約3〜4時間 長距離ルート
大阪 → 江戸(箱根越えは飛脚) 約500km 約8時間 複合通信ルート

この「大阪→京都20分」「大阪→江戸8時間」は、
江戸時代としては世界最速レベルの通信記録です。


💬 通信プロトコルの完成度

旗振り通信は単なる旗振りではなく、
**情報の正確性を保証する“通信プロトコル”**が存在していました。

  • 送信開始信号 → 「これから送るぞ」

  • 本文信号 → 数字や単語の組み合わせ

  • 確認信号 → 「受信完了」

  • 再送信 → 誤読時の再試行ルール

  • 終了信号 → 通信終了を宣言

この「確認」と「再送」があったおかげで、
誤伝達が極めて少なく、精度の高い通信が実現していました。

一種の“モールス符号の日本版”であり、
人力で構築されたアナログ・デジタル通信と言えます。


🌤️ 晴天限定の“リアルタイム通信”

旗振り通信の最大の強みは速度でしたが、
同時に最大の弱点は「天気」でした。

  • 晴れの日:視界クリアで最速伝達

  • 霧・雨・強風:通信中断

  • 夜間:松明や提灯を使った「火振り通信」へ切り替え

このため、通信担当者たちは常に天候を読み、
空が晴れた瞬間に一斉に旗を上げました。

「雲が切れたらすぐ旗を上げろ!」

旗振り師たちは、まさに天気と戦う“通信のプロ”だったのです。


🗺️ 地形が生んだ通信技術

日本の地形は山が多く、
この“見通しの良い山脈”が旗振り通信の大きな味方でした。

瀬戸内海沿岸では、島や岬を中継点にして通信ルートを最適化。
旗が見えない区間は鏡反射や火の光を補助信号として利用しました。

つまり、江戸の旗振り通信は、
日本の山岳地形を利用した自然地形ネットワークだったのです。


🔁 通信の即時性がもたらした“経済革命”

このスピードにより、米相場や船舶情報が即時共有され、
商人たちは先回りして取引を成立させることができるようになりました。

大阪で相場が上がれば、
京都でもほぼ同時に価格が動く。
つまり、旗振り通信は「市場を同期させた」日本初のリアルタイム通信。

江戸時代にインターネット的な“時間共有”が生まれた瞬間です。


📈 世界的に見ても驚異の技術

同時期のヨーロッパでは、
フランスの「シャップ腕木通信」(1792年)が国家規模で運用されていました。
パリからリヨンまでの約450kmを5時間で伝達。

一方、日本の旗振り通信は、
ほぼ同じ速度を、民間商人の力だけで達成していたのです。

つまり、旗振り通信は

世界的にも“トップクラスの光通信技術”
しかも民間主導で完成していた奇跡的システム。


🌍 第4章|日本独自の発展──欧州のセマフォとは違った


🗺️ 世界にもあった「旗通信」──ヨーロッパのセマフォ

「旗を使った通信」は、実は世界にも存在していました。
18世紀末、フランスでは**シャップ兄弟(Chappe brothers)**が発明した
「腕木通信(セマフォ・テレグラフ)」が登場します。

  • 1792年、パリとリール間(約230km)に開通

  • 木製の腕木を塔の上で動かし、文字や数字を送信

  • 各塔に監視員がいて、中継をリレー

  • 約450km離れたパリとリヨン間を約5時間で通信可能

つまり、ヨーロッパではすでに「光を使った国家通信網」が
軍事・外交目的で整備されていたのです。


⚙️ では、なぜ日本の旗振り通信は“独自”だったのか?

日本と欧州の旗通信は、見た目は似ています。
しかし、その成り立ち・目的・精神がまったく異なっていました。

比較項目 欧州のセマフォ通信 日本の旗振り通信
発明者 技術者・政府(シャップ兄弟など) 商人・民間組織
主目的 軍事・外交・行政命令の伝達 米相場・商業情報の共有
主体 国家主導 民間主導
使用機材 腕木装置・専用塔・機械式構造 手旗・火振り・人力
通信範囲 フランス全土など 大阪〜広島(のちに江戸方面へも伝達)西日本中心
管理体制 官僚・軍部が統制 商人ネットワークによる自主運営

つまり、

🇯🇵 日本の旗振り通信は「経済のための光通信」

🇫🇷 欧州のセマフォは「国家のための光通信」

同じ「光通信」でも、思想そのものが違っていたのです。


💰 商人がつくった“経済ネットワーク”

江戸の旗振り通信を支えていたのは、政府でも武士でもありません。
堂島米会所の商人たちです。

彼らは自分たちの利益を守るために旗振り網を作り、
旗振り師を雇い、符号ルールを秘密裏に共有していました。

いわば、

「商人によるインフラ」「民間クラウドネットワーク」

情報を速く掴んだ者が勝つ。
旗振り通信は、まさに“情報格差”を可視化したテクノロジーでもありました。


🔒 秘密の符号と情報戦

旗振り通信の符号体系は商人たちの秘密でした。

  • 数字や単語を符号化し、他者には解読できないようにする

  • 各中継所ごとに異なる略号を使う

  • 符号表は一子相伝で継承

これは、現代でいう「暗号通信」や「プロトコル鍵」に近い考え方です。

幕府からすれば、

「誰が、どこで、何を伝えているのか分からない」

この“見えない通信”が後に禁止される理由にもなりました(第5章で解説)。


🔭 欧州のセマフォは国家の象徴、日本は庶民の知恵

ヨーロッパではセマフォ塔が「国家の威信の象徴」でした。
石造りの塔、機械仕掛けの腕木、統制された監視員。
完全に国家の管理下で動くシステムです。

一方の日本では、
旗振り通信の拠点は山頂の小屋や神社の境内。
旗と火と人間の目だけ。

技術ではなく“工夫”で通信を成立させた。

この「人間の力で光を操る」発想こそ、
日本の旗振り通信が世界史的にも独自とされる理由です。


📡 世界技術史の中の旗振り通信

ヨーロッパでは19世紀半ば、電信(モールス信号)が登場すると
セマフォ通信はすぐに消えていきました。

しかし日本では、電信導入(明治4年/1871年)までの間、
旗振り通信が“電信の代わり”として活躍し続けたのです。

しかもその運営は、地方商人・村人・漁師まで巻き込んだ草の根ネットワーク
日本の旗振り通信は、世界の光通信の中でも最も長く、
そして最も人間味あふれるシステムでした。


💡 「民の技術」が国家を超えた

欧州の光通信は、国家が人々を統制するための技術でした。
一方、日本の旗振り通信は、人々が国家の目をかいくぐって自分たちの生活を守るために生み出した技術です。

👁️‍🗨️ 「管理の光」ではなく、「暮らしの光」

だからこそ、この通信網は長く庶民に受け入れられ、
明治時代の通信制度の土台となっていきました。


🚫 第5章|なぜ禁止されたのか?──“速すぎる通信”が生んだ恐怖


⚖️ 旗振り通信は「速すぎた」

江戸幕府が旗振り通信を禁止した理由。
それは、単純に言えば──あまりに速すぎたからです。

旗振り通信によって、
大阪・堂島の米相場が決まると、
数時間後には京都・江戸の商人がその情報を知るようになりました。

つまり、一部の商人が「まだ他の町が知らない情報」を独占できる。
それが、経済全体を揺るがすほどの“情報格差”を生み出してしまったのです。

💰 「旗が一本振られれば、相場が動く」

江戸時代の人々にとって、それはまさに“見えない経済の魔法”でした。


📈 理由①|相場操作と投機の温床

旗振り通信を使えば、
大阪の米会所で値が上がった瞬間に、京都や江戸で先回り取引ができました。

これにより、一部の豪商だけが莫大な利益を得る一方で、
他の商人や庶民は損を被る構造が生まれました。

結果、米の値段は急騰・急落を繰り返し、
市場は混乱。物価が安定しなくなったのです。

速すぎる通信は、経済のバランスを崩す“刃”となった。

江戸幕府は「旗振り通信=市場撹乱の原因」とみなし、
この“光のネットワーク”を危険視し始めました。


🏛️ 理由②|情報統制の崩壊

江戸幕府は、あらゆる情報を飛脚制度で管理していました。
手紙・通達・報告書などはすべて公儀飛脚を通じて流れる仕組みです。

ところが旗振り通信は、

  • 誰が

  • どこで

  • 何を
    伝えているのか、幕府には一切分からない。

望遠鏡を覗いて旗を振るだけで、どんな秘密でも伝えられる。
つまり、幕府の目の届かない“非公式ネットワーク”だったのです。

「旗振りは、山上の飛脚である」

と称された一方で、幕府にとっては“目に見えぬ脅威”でもありました。


🔒 理由③|密談・間諜(スパイ)への警戒

幕府がもっとも恐れたのは、
旗振り通信が軍事通信や密通に利用されることでした。

  • 他藩への内密な連絡

  • 外国船の動きの伝達

  • 政策や命令のすり替え

どんな符号で、誰に伝えているかがわからない。
この「解読不能な通信網」は、
江戸の治安維持という観点からも見過ごせない存在だったのです。


📜 天保年間(1830〜1844)──正式な禁止令

ついに幕府は、天保年間に以下のような布告を出します。

「摂津・播磨などの地にて、旗を振りて相場を通報するを禁ず。
これを犯す者は厳罰に処す。」

対象は主に大阪から兵庫・赤穂にかけての沿岸部。
旗振り場の撤去命令まで出され、
民間の通信網は一気に姿を消しました。


⚔️ 商人たちの“通信レジスタンス”

しかし、商人たちは簡単には諦めません。

  • 禁止地域を避けた「山陰ルート」を開拓

  • 一見ただの“旗遊び”に見せかけた偽装通信

  • 旗の色を変えた暗号化通信

こうして幕府の監視をかいくぐり、
旗振り通信は“地下通信”として細々と続けられました。

この「禁止されても止まらない技術の流れ」は、
まさに後の電信・電話・インターネット史にも通じる現象です。


💬 “速さ”は恐れられる力だった

旗振り通信が禁止された背景には、
単なる市場の混乱だけでなく、
「情報のスピード」に対する当時の社会的恐怖がありました。

  • 情報を早く得る者が“神のように有利”になる

  • 社会が“追いつけない速さ”で変わる

  • 権力が“コントロールを失う”

江戸時代の人々は、初めて「技術が社会を追い越す瞬間」を目撃したのです。


⚡ 技術が時代を超えた瞬間

皮肉なことに、幕府が恐れたこの「旗の速さ」こそ、
後の日本の通信技術を支える原点になりました。

“速さは危険”という認識が、
のちに“速さを正確に制御する技術”──つまり電信・電波・通信制度へとつながっていきます。

旗振り通信は、禁止されながらも
日本人に「スピードの力」を教えた最初のテクノロジーだったのです。


🏳️‍🌈 第6章|再評価──“旗が国家を救った日”


⚓ 禁止された技術が、再び必要とされた

天保の禁止令によって姿を消した旗振り通信。
しかし、時代は幕末へと進み、
日本は再び“光による通信”の力を必要とすることになります。

19世紀半ば、外国船が次々と日本近海に出没。
開国をめぐって国内が揺れるなか、
**「情報をいかに早く伝えるか」**が国家の命運を左右する課題になったのです。

そんな中、かつて「投機の道具」として禁じられた旗振り通信が、
“国を守る通信手段”として蘇る瞬間が訪れました。


🚢 1865年(慶応元年)──兵庫沖、外国艦の影

慶応年間、兵庫沖に外国艦が現れた際、
その情報が旗振り通信によって大阪方面へ伝えられた──
そんな記録・伝承が地元に残っています。

港の漁師や商人が旗を掲げ、
山から山へと信号をリレーしたとされ、
一時は途絶えていた旗振り通信が再び動き出した瞬間でした。

「異国船、兵庫沖に出現!」

その知らせは、わずかの時間で沿岸各地へ広がり、
光のリレーによって防衛や警戒に役立てられたといわれています。
当時、飛脚であれば1〜2日を要した情報が、
数十分から数時間で共有されたという伝承もあります。


💥 禁止が解除された“通信の復権”

この出来事を契機に、旗振り通信の有用性が再び注目されました。
「光を使った通信は危険ではなく、むしろ有益である」──
そう考える人々が増え、
沿岸地域では防衛や見張りの目的で通信が部分的に再開されたとも伝わります。

かつて幕府が恐れた“速すぎる通信”が、
今度は国を守るための力として再評価されたのです。


「禁止された技術が、国家を救った」

これは、日本の通信史における象徴的な転換点でした。
人々が生み、恐れられ、そして再び必要とされた技術。
旗振り通信はここで、**“江戸の叡智”から“国の防衛インフラ”**へと
その役割を静かに変えていったのです。


🏯 幕末から明治へ──光が国家の制度になる

明治維新を迎えると、新政府は通信を国の基盤と位置づけ、
全国的な通信体制の整備に着手しました。
とはいえ、電信線が全国に張り巡らされるにはまだ年月を要しました。

その間、各地では旗振り通信で培われた経験や発想が活かされ、
通信技術の移行を支えたと考えられています。
山頂の中継所が観測所や通信拠点として再利用されたり、
海軍では明治期にイロハ式手旗信号などの制度が整備され、
光を使った伝達の仕組みが制度化されていきました。

つまり、旗振り通信は単なる前段階ではなく、
**明治の通信制度を育てた“橋渡しの知恵”**でもあったのです。


📡 光が電気へ──技術の進化のバトン

旗振り通信は「光」を用いたアナログ通信。
一方、明治の電信は「電気」によるデジタル通信。

この“光から電気への転換”こそ、
日本の近代通信が始まる最大のブレークスルーポイントでした。

しかし、その根底には、旗振り通信で培われた
「中継」「符号」「確認」「即時伝達」という思想が生き続けていたのです。

💡 “旗が電線に姿を変えただけ”──
それが、日本の通信史の真実でした。


🕊️ 旗振り通信が残した“人のネットワーク”

旗振り通信がもたらした最大の遺産は、技術そのものではありません。
それは、人と人とがつながる仕組みでした。

  • 誰かが旗を振り、誰かが受け取る

  • 信頼がなければ、通信は成立しない

  • 情報は、光だけでなく“人の連携”で伝わる

この“人間ネットワーク”の精神こそが、
のちの日本の通信文化──電信、電話、インターネットへと受け継がれていくのです。


🌅 禁止された旗が、未来を照らした

旗振り通信は、幕府に恐れられ、禁止され、
それでも必要とされた時代の“希望の光”でした。

速さは恐れられたが、
速さこそが国を守った。

江戸の山に翻った一枚の旗。
それは、単なる布ではなく、
**時代を超えて人をつなぐ「光の象徴」**だったのです。


🌇 第7章|終焉と遺産──電信への橋渡し


🔔 明治初期、電信の誕生

1869年(明治2年)、東京と横浜のあいだで日本初の電信サービスが開始されました。
さらに1871年(明治4年)には、長崎と上海を結ぶ国際海底電信線が開通し、
日本はついに“世界とつながる国”へと歩み出します。

これは、電気信号によって文字を伝えるモールス電信の時代の幕開け。
まさに「旗」から「電線」へ──通信の主役が切り替わった瞬間でした。

⚡ 江戸の旗が伝えてきた“光”は、
ここで“電気の光”へと進化したのです。

以降、電信は全国に急速に普及し、
旗振り通信はその役目を終えながらも、
“光を使って人をつなぐ”という思想を確かに次の時代へ引き継ぎました。


🏳️‍🌈 旗振り師たちの新しい仕事

旗振り通信が姿を消したあとも、
旗を振っていた人々の経験と技術は無駄にはなりませんでした。

地域によっては、旗振り通信の経験者が電信や通信の仕事に関わったと伝えられています。
また、山頂の中継所がそのまま観測や通信の拠点として再利用された例もあったようです。

さらに、明治期に整備された**手旗信号(イロハ式)**など、
後の可視通信の仕組みには旗振り通信の発想が生かされたともいわれています。

つまり旗振り通信は、“消えた”のではなく、
形を変えながら日本の通信文化の中に受け継がれていったのです。


🔭 光通信から電信へ──継がれた思想

旗振り通信の仕組みを振り返ると、
驚くほど現代の通信技術と共通しています。

江戸の旗振り通信 現代の通信技術
光を使う(視覚信号) 電磁波・光ファイバー
山頂ごとの中継 中継局・ルーター
確認・再送の仕組み エラー訂正・再送信プロトコル
人による符号化 デジタル符号化(コード)

江戸の商人が旗で築いた「通信の原理」は、
実は21世紀のネットワーク技術にも脈々と受け継がれているのです。


🪶 “速さ”と“信頼”を両立させた日本人の知恵

旗振り通信が示した最大の価値は、
ただ速いだけでなく、確実に届けるという思想でした。

  • 曇りの日は中継を止める

  • 誤読があれば再送信

  • 人の判断を信頼する

この「速さと信頼の両立」という考え方は、
現代の日本の通信インフラ──鉄道ダイヤ、郵便、ネットワーク品質など、
あらゆる分野の“日本的正確さ”の原点といえます。


🕊️ 旗の文化が残したもの

現在、兵庫県の**旗振山(はたふりやま)**には、
旗振り通信を記念する石碑が建っています。

山の名そのものが、かつて通信の舞台だった証。
かつての旗の光景は、今も地名や祭りの中に息づいています。

また、港や海上では「国際信号旗」としてその文化が続き、
船舶が旗の組み合わせで意思を伝える仕組みは、
まさに旗振り通信の精神そのものです。

一枚の旗が、人と人をつないでいた。
その精神は、今も海と空の上で生きている。


🌅 終わりではなく、“進化の通過点”

旗振り通信は、電信に取って代わられたことで
「古い技術」として忘れられがちですが、
実は日本の通信史を貫く太い幹のひとつです。

光→電気→無線→インターネットへ。
そのすべての根に、江戸の旗があった。

💡 技術は消えない。形を変えて、光り続ける。

旗振り通信とは、まさにその象徴。
“速さを恐れず、信頼でつなぐ”──
そんな日本的コミュニケーションの原点でした。


🕊️ 最終章|まとめ──江戸の旗が現代に教えてくれること


🌄 江戸の山から始まった“光の物語”

江戸時代。電気も電話もない時代に、
人々は山の上で旗を振り、光を操り、遠くの誰かに想いを届けていました。

それが旗振り通信──
日本最初の「光通信」であり、人の力によるネットワークでした。

旗一本、火ひとつ。
わずかな信号に込められたのは、
「信頼」と「連携」、そして**「速さ」**という3つの価値。

この仕組みは単なる通信手段ではなく、
江戸の人々の知恵と工夫、そして“人をつなぐ文化”そのものだったのです。


⚡ 技術は「恐れ」から「信頼」へ

旗振り通信は、最初は恐れられました。
速すぎる。見えない。制御できない。
幕府はそれを禁じ、光を封じ込めました。

しかし時が経つと、その光が再び必要とされ、
幕末には**「国を救う通信」**として再評価された。

技術とは、恐れるものではなく、
正しく使えば、人を救う力になる。

旗振り通信の歩みは、まさにその教訓を私たちに残しています。


💡 江戸の旗が教えてくれる“情報の本質”

旗振り通信を通して見えてくるのは、
情報とは“速さ”だけではなく、“信頼”と“共有”の上に成り立つということ。

  • 速くても、信じられなければ意味がない

  • 正確でも、伝わらなければ無意味

  • 技術は、人の誠実さによって完成する

この構造は、現代のインターネットにもまったく同じ。
旗がWi-Fiアンテナになり、山がサーバーになっても、
**「つなぐ本質」**は変わらないのです。


🧭 日本らしい“通信”の在り方

日本の通信史を振り返ると、
旗振り通信、電信、電話、無線、そしてインターネット。
どの時代も共通しているのは、人を思う丁寧さです。

  • 旗を振る前に確認し、

  • 電信を送る前に符号を確かめ、

  • メールを送る前に相手の気持ちを考える。

技術の中心には、いつも「人」がいる。

それが、江戸の旗が私たちに残した“日本的コミュニケーションの美学”です。


🕰️ 江戸から未来へ──光は消えない

今、私たちは光ファイバーを使い、
秒速で世界とつながる時代に生きています。

けれどその原点は、
200年前、山の上で風に揺れた一枚の旗でした。

旗振り通信は、過去ではなく、
いまも私たちのインターネットの中で生きている。

江戸の旗が示した“光の道”は、
電線を越え、衛星を越え、
これからも未来の通信を照らし続けるのです。


✅ まとめ:江戸の旗が教える5つの真理

教訓 内容
① 光は人をつなぐ 技術は距離を縮め、人の心を結ぶ
② 速さは力になる 情報のスピードが社会を動かす
③ 信頼が基盤になる 正確さと誠実さが通信の要
④ 恐れず活かす 新技術は恐れるより、理解し活かす
⑤ 人が中心にある どんな時代も、伝えるのは「人」

🌅 終わりに──旗は、いまも風の中に

江戸の山に立つと、今も風が吹き抜けます。
かつてその風の中に、旗が翻り、
人々の想いが光になって遠くへ飛んでいった。

その旗の軌跡は、
現代の光ファイバーの中にも、スマホの電波の中にも、
確かに生きています。

💬 技術の進化は止まっても、
「伝えたい」という心は止まらない。

江戸の旗は、
今も風の中で、静かに“通信”を続けているのです。


完結|江戸の旗振り通信──日本最初の光ネットワーク
このシリーズを通して見えてきたのは、
日本の通信の原点が「人の知恵と信頼」だったということ。

次にあなたがスマホで誰かにメッセージを送るとき、
その背景には、江戸の山で旗を振った人たちの想いが
光のように流れているかもしれません。


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