歌・歌う・唄・唱・詩の違いとは?なぜ全部「うた」と読むのかを語源と歴史から解説【「歌を歌う」と「歌唱する」の違いも】

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0章|導入──「うた」って、いくつあるんだ?


歌。
歌う。
歌唱。
歌を歌う。

あらためて並べてみると、少し不思議です。

「歌を歌う」って、よく考えると
同じ言葉を二回言っていない?
それなのに、私たちは日常の中で、ほとんど違和感なく使っています。

さらにややこしいのが、漢字です。

歌?
唄?
唱?
詩?

どれも「うた」と読めてしまうのに、意味や使われ方は、どこか少しずつ違う。

では、こんな言い方はどうでしょう。

「歌う」とは言うけれど、
「唱う」とは言わない。

お経は「唱える」し、
呪文も「唱える」。
けれど、歌は「唱わない」。

それなのに、
「歌唱する」という言葉は、確かに存在しています。

――少し混乱します。

そこで、問いを整理してみましょう。

なぜ日本語は、
「うた」という〈作品〉と〈行為〉を、同じ読みで呼んできたのか。

なぜ「うたう」という動詞と、
「うた」という名詞が、
強く結びついたまま使われているのか。

この疑問は、単なる言葉の違いにとどまりません。

そこには、

・日本語が言葉をどう扱ってきたか
・日本人が「表現」をどう捉えてきたか
・声・言葉・感情の関係をどう感じてきたか

といった、文化的・言語的な背景が関わっています。

結論を先に少しだけ述べるなら、
日本語の「うた」は、もともと作品と行為を厳密に分ける言葉ではなかった
と考えられています。

「うた」とは、
声を出すこと。
気持ちを外に表すこと。
誰かに向かって響かせること。

つまり、行為そのものが成立していた言葉だったのです。

では、そこから
歌・唄・唱・詩は、どのように使い分けられていったのか。

そして、なぜ今も私たちは、無意識のまま「歌を歌う」と言い続けているのか。

次の章では、日本語における「うた」の古い姿を手がかりに、この問題をひも解いていきます。


1章|「うた」は行為だった──古代日本の「歌」


現代の私たちは、「歌」と聞くと、
完成された作品を思い浮かべがちです。

CDに収録された曲。
楽譜に書かれたメロディ。
データとして保存され、再生される音楽。

しかし、日本語の「うた」は、
もともとこのような形で成立した言葉ではなかったと考えられています。


「うた」は、まず声に出す行為だった

古代の日本では、

・書き留めて保存する
・作品として鑑賞する
・完成形として固定する

といった発想自体が、一般的ではありませんでした。

「うた」とは、

その場で声を出し、
誰かに向かって気持ちを表す行為

として存在していたと考えられます。

そのため、

歌う
詠む
語る

といった行為も、
現在ほど明確に区別されていなかったとされています。

声に出して表すこと自体が、表現だった
という感覚が、背景にありました。


万葉集の歌は「読む」ためのものではなかった

『万葉集』に収められている歌も、
当初から書物として鑑賞されていたわけではありません。

宴の場や、
儀礼の場、
旅や別れの場面など、
生活の中で声に出されていたものが、
後に文字として記録されたと考えられています。

つまり、

先に「うたう」という行為があり、
あとから「歌(文字)」が残った

という関係です。

この意味で「歌」は、行為の結果として残された記録でもありました。


なぜ「うた」は名詞にもなったのか


日本語には、

祈る → 祈り
語る → 語り
踊る → 踊り

のように、行為を表す言葉が、そのまま名詞化する傾向があります。

「うた」も同様に、

うたう

うた(うたわれたもの)

という形で使われてきました。

これは、必ずしも「作品化」を意味するものではなく、
行為の痕跡を指す言い方だったと考えられます。

そのため、

・うた(名詞)
・うたう(動詞)

が、長く密接に結びついたまま使われてきました。


古代において「うた」は分ける必要がなかった

現代では、

歌う人
歌という作品
聴く人

が、それぞれ独立して意識されます。

一方、古代の「うた」は、

歌う人がいて、
聴く人がいて、
その場に歌が生まれる

という、一体的な表現だったと考えられます。

その場が終われば、歌も消える。

だから、

「これは作品」
「これは行為」

と分ける必然性が、あまりなかったのです。


「歌を歌う」が不自然に聞こえない理由

この背景を踏まえると、
「歌を歌う」という言い方も、
単なる重複ではなくなります。

これは、作品名を繰り返している表現ではなく、

行為をあらためて確認・強調する言い方

と捉えることができます。

「歌を歌う」とは、

ただ声を出すのではなく、「うた」として声を出す

という、日本語的な言い回しなのです。


2章|歌・唄・唱・詩──漢字が生んだ分岐


日本語の「うた」は、本来ひとつの行為を指す言葉でした。

そこに漢字が当てられることで、意味の整理が進んでいきます。


漢字は意味を区別するための文字

漢字は、中国語の表記体系として発達した文字です。
その特徴は、意味の区別を重視する点にあります。

日本語に漢字が導入されると、

ひとつの「うた」に、
複数の漢字を割り当てる

という整理が行われました。


① 歌(うた)──最も広い意味を持つ言葉

「歌」は、

・歌う行為
・歌われた内容
・音楽的表現全般

を広く含む言葉です。

意味の幅が広く、曖昧さを許容する点で、もっとも日本語的な「うた」と言えます。


② 唄(うた)──声で伝えられてきた歌

「唄」は、

・民謡
・芸能
・生活の中で歌われてきた歌

といった文脈で使われることが多い字です。

文字よりも、声と記憶によって伝えられる歌
というニュアンスを帯びています。


③ 唱(うた)──「歌う」ではなく「となえる」

「唱」は、

定まった言葉を声に出して繰り返す

という意味を持ちます。

そのため、

お経を唱える
呪文を唱える

とは言いますが、一般に「唱う」とは言いません。

感情表現よりも、儀式的・定型的な発声を指す字です。


④ 詩(うた)──声を離れた言葉

「詩」は、

文字として成立し、声に出さなくても意味を持つ表現です。

古典では、

詩(し)=漢詩
歌(うた)=和歌

といった文化的な区別も行われました。


読みが分かれなかった理由

漢字によって役割は分かれても、読みが「うた」のまま残ったのは、

日本語の感覚では、
それらが完全に別物とは感じられなかった

からだと考えられます。

この「分けなさ」が、日本語の柔らかさでもあり、同時に分かりにくさでもあります。


3章|なぜ「唱う」とは言わないのか


ここまで読むと、たぶん多くの人がここで引っかかります。

「歌う」とは言うのに、なぜ「唱う」とは言わないのか。

漢字としては、

歌(うた)
唄(うた)
唱(うた)

どれも「うた」と読めそうに見えます。
しかし実際の日本語では、

歌う
唄う

はあっても、「唱う」は一般的ではありません。

これは単なる言い方の好みというより、「唱」という字が担う行為の性格が違うためだと考えられます。


「唱」は“自由な表現”より“定型の反復”に近い

「唱える」という動詞は、辞書的にも

  • 声に出してとなえる

  • 定まった言葉を繰り返す

といった方向の意味を持ちます。

そのため、

お経を唱える
呪文を唱える
標語を唱える

のように、言葉の内容がある程度固定されたものに対して使われやすい。

ここでは、

即興性
個人の感情
表現としての揺れ

といった要素は、主役ではありません。


「歌う」は“自分の声”で外に出す行為

一方の「歌う」は、同じ「声に出す」でも性格が少し違います。

歌うとき私たちは、

気持ちを込める
声色を変える
節回しを崩す

といったように、個人の表現が強く出ることが多い。

もちろん、合唱や校歌のように型が決まっている場合もありますが、
それでも一般的には「歌う」は

感情や身体感覚と結びついた発声

として捉えられやすい言葉です。


では「合唱」は、なぜ「唱」なのか?

ここで混乱しやすい例が、合唱(がっしょう)です。

合唱は確かに「歌う」行為なのに、漢字は「唱」を使っています。

これは一般に、

声をそろえること(統一)が重視される
個人の自由な崩しより、全体の一体感が優先される

といった性格が背景にあると説明されます。

つまり合唱は、

「歌う」行為でありつつも、感覚としては「唱える(唱和する)」に近い面がある。

そのため「唱」が残っている、と理解するとスムーズです。


「唱う」が一般的にならなかった理由

「唱」は、もともと

「唱える」という形で使われるのが基本で、
そこから改めて「唱う」という形を作る必要があまりなかったとも考えられます。

また、もし「唱う」を一般化すると、

  • 自由に歌うのか

  • 定型をなぞるのか

という意味の境界がぶつかりやすく、結果として日本語は「唱える」を中心に据えた。という見方もできます。


補足:「謳う(うたう)」という別の字もある

なお「うたう」には、もう一つ有名な漢字があります。

謳う(うたう)

これは一般に、

  • 声をあげてほめる

  • 高らかに言い立てる

  • 標語・理念として掲げる

といった文脈で使われます。

たとえば、

「憲法で〜を謳う」
「理想を謳う」

のように、音楽の「歌う」とは少し違い、公に掲げる・言い表す寄りの意味合いになります。

この存在も、「うたう」が単に音楽だけの動詞ではないことを示しています。


4章|なぜ「歌唱する」という言葉が生まれたのか


「歌う」だけで意味は十分に通じます。
それでも私たちは、場面によって

歌唱する

という少し硬い言い方をします。

これは主に、

教育
放送
舞台
評価・審査

といった領域で、「歌う」という行為をより客観的に説明したい。という必要が出てきたためだと考えられます。


「歌唱」は“行為を外から見る言葉”

「歌う」には、

気分
感情
その場の空気
個人差

が自然に含まれます。

一方の「歌唱」は、

発声
音程
リズム
技術・表現法

といった要素を、外側から整理して扱うときに便利な語です。

そのため、

歌唱力
歌唱法
歌唱指導

のように、評価や教育の文脈でよく使われます。


なぜ「歌唱する」は少しよそよそしく聞こえるのか

「今日は歌った」とは自然に言えますが、
「今日は歌唱した」は日常では少し硬い。

この違いは、

  • 「歌う」=生活の言葉

  • 「歌唱」=説明・制度の言葉

という役割分担があるためだと捉えられます。


「唱」が残した“整える”感覚

「歌唱」の「唱」は、

定型に寄せる
技術として扱う
均質に整える

といったニュアンスを帯びることがあります。

自由な表現としての「歌う」より、もう少し客観化された視点が入る。

この中間的な距離感が、「歌唱」という語の位置づけを作っていると言えます。


5章|それでも日本語は「うた」を分けなかった理由


ここまでで、
「うた」は本来ひとつであり、漢字や制度によって役割が整理されていった――
という流れが見えてきました。

それでも不思議なのは、





歌唱

と要素が分かれても、読みは今も「うた」のままだという点です。

なぜ日本語は、最後まで「うた」を分け切らなかったのでしょうか。


日本語は“過程”を含む言い方が得意

ここは学術的断定というより、
言語感覚としての整理ですが、

日本語は

「出来上がった結果」だけでなく
「動き・過程・場の気配」

をまとめて指す言い方を好みます。

「うた」も同じで、

作品(固定物)
行為(動作)

をきっぱり分けるより、重なりを残したまま扱ってきた――
と見ることができます。


「うた」は“固定しにくい表現”だった

踊りは振付や型として外側から捉えやすいのに対して、
歌は声・感情・節回しなど、内側の要素が強く、固定しにくい面があります。

そのため、歴史的にも

「歌=作品」
「歌う=行為」

と完全に分離するより、両者が重なったまま残った――
という見方が成り立ちます。


読みを分ける=一本の感覚を切ることになる

もし日本語が、

歌(か)
唄(ばい)
詩(し)

のように読みを分けていたら、意味は整理されやすかったかもしれません。

ただ一方で、

「うた」という一続きの感覚
(声・言葉・気持ちが重なる感じ)

は薄れてしまった可能性もあります。

日本語は、多少ややこしくてもこのつながりを残す方を選んだ――
と考えることもできます。


「歌を歌う」は、日本語の特徴が現れる言い方

ここで最初の疑問に戻ると、「歌を歌う」は単なる無駄ではなく、

行為を確認する
「歌として」声を出すことを強調する

といった役割を持つ表現として理解できます。


まとめ|「うた」は、声になる感情だった

歌。
歌う。
唄。
唱。
詩。
歌唱。

これだけ多くの言葉があっても、
最後に残る読みはひとつ――

うた。

日本語にとって「うた」は、

完成された作品
制度化された技術
文字として固定された表現

だけを指す言葉ではなく、

人が声で気持ちを外に出す
その瞬間の出来事

を含んでいた、と考えられます。

だからこそ、

行為と結果は重なり、
作品と表現は重なり、
読みだけはひとつのまま残った。

そして私たちは今も、何気なくこう言います。

歌を歌う。

理屈では少し変なのに、感覚としては自然。

その「変さ」と「自然さ」が同居しているところに、日本語の面白さがあるのかもしれません。


✍️コラム|「歌を歌う」って、やっぱり変じゃない?

正直に言うと、「歌を歌う」って、やっぱりちょっと変です。

歌うなら、もう歌ってる。
なのに、なぜわざわざ「歌」を重ねるのか。

でも、次を比べると違いが見えてきます。

  • 今日は歌った

  • 今日は歌を歌った

意味はほぼ同じ。
ただ「今日は歌った」は事実の報告。
一方で「今日は歌を歌った」には、

ただ声を出したんじゃなく、
ちゃんと“歌として”やった

という確認や強調が少し混ざります。

理屈で言えば冗長でも、感覚としてはしっくりくる。

変だけど、間違ってはいない。
それが日本語。

たぶん「歌を歌う」は、その代表例です。


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