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第0章|導入──旧新津市とは?
新潟市秋葉区の中心に残る「新津」という名前
現在の新潟市秋葉区の中心にあたる**旧新津市(にいつし)**は、かつて独立した市として栄えていました。2005年の市町村合併で新潟市に編入されましたが、今も駅名や学校名、商店の屋号などに「新津」の名が残り、地元の人々に深く根づいています。
石油と鉄道が育てた町の二つの顔
この町を特徴づけたのは、明治から昭和にかけて日本の近代化を支えた二つの大産業です。ひとつは、国内最大級の産油量を誇った新津油田。もうひとつは、鉄道路線の要衝として発展した鉄道産業です。新津は「石油の町」と「鉄道の町」という二つの顔を持ち、近代日本の成長をエネルギーと交通の両面から支えました。
今も残る文化と誇り
現在の秋葉区新津地区には、石油文化や鉄道文化を伝える資料館や史跡が残り、かつての繁栄を今に伝えています。近代の歩みと地域の誇りを象徴するこの土地は、新潟市の中でも独自の存在感を放ち続けているのです。
第1章|石油産業の歴史──日本一の産油量を誇った新津油田
新津油田の発見と本格開発
旧新津市の発展を語るうえで欠かせないのが新津油田です。江戸時代からすでに採油が行われていましたが、19世紀後半に入ると本格的な開発が始まり、全国から注目を集める存在となりました。
1917年、日本一の産油量を記録
新津油田が最盛期を迎えたのは1917年(大正6年)。この年、年間産油量は約12万キロリットルに達し、当時の日本で最大の産油量を誇る油田となりました。石油がまだ貴重だった時代、新津はまさに日本の近代化を支えるエネルギー拠点だったのです。
町を変えた石油産業の力
石油産業の発展により、新津は農村から産業都市へと大きく姿を変えました。採掘や精製に従事する労働者が全国から集まり、社宅や関連施設が整備され、人口の増加とともに町の景観も一変しました。石油がもたらした雇用と富は、新津の都市化を強力に後押ししたのです。
遺産として残る「石油の町」の記憶
採掘は1996年に終了しましたが、新津油田の記憶は今も地域に刻まれています。国の史跡に指定された金津鉱場跡をはじめ、石油の里公園や石油の世界館などの施設では、当時の繁栄を物語る資料が保存され、「石油の町・新津」としての歴史を次世代に伝え続けています。
第2章|鉄道の町としての新津
鉄道拠点としての整備
石油産業と並んで旧新津市を支えたのが鉄道産業です。明治期に鉄道路線が新津を通ると、地理的な要衝という立地が評価され、鉄道の拠点として整備されました。新津駅は早くから重要な乗換駅となり、町は「鉄道の町」としての地位を確立していきます。
新津機関区と鉄道技術の集積
特に大きな役割を果たしたのが新津機関区の設置です。ここでは蒸気機関車をはじめ、多くの鉄道車両の整備・管理が行われ、全国から鉄道技術者や職員が集まりました。社宅や職員住宅も整備され、町全体が鉄道関連産業と深く結びついた「鉄道文化の拠点」となっていきました。
暮らしとともにあった鉄道
新津に暮らす人々にとって、鉄道は単なる交通手段ではなく生活の一部でした。駅前の商店街は鉄道利用者でにぎわい、鉄道職員とその家族が地域コミュニティを形成しました。鉄道は、町の経済と文化を根本から支える柱だったのです。
今に伝わる鉄道の誇り
現在でも新津は「鉄道の町」としての誇りを受け継いでいます。新津鉄道資料館には当時の車両や設備が保存され、鉄道ファンや観光客を引きつけています。鉄道とともに歩んだ歴史と文化は、今も新潟市秋葉区のアイデンティティとして息づいているのです。
第3章|文化と暮らしの発展
人口増加と都市化の進展
石油と鉄道という二つの産業の発展により、旧新津市には全国から多くの人々が移り住みました。人口は急速に増加し、町は農村から産業都市へと姿を変えていきました。労働者やその家族のために住宅地や社宅が整備され、学校や病院などの公共施設も充実していきました。
社宅文化と地域コミュニティ
石油会社や鉄道関連の社宅は、単なる住まいではなく人々の交流の場でもありました。隣近所が同じ職場に勤める仲間という環境は、強い連帯感を育みました。互いに助け合いながら暮らす**「社宅コミュニティ」**は、新津独自の文化として地域に根づきました。
商業の発展と生活の充実
人口の増加と産業労働者の定着は、商業の発展も後押ししました。駅前には飲食店や雑貨店が立ち並び、鉄道や石油で働く人々の暮らしを支える役割を果たしました。これにより新津は単なる産業都市にとどまらず、商業と生活文化の拠点としても発展していきました。
町に息づいた労働者気質
石油や鉄道に従事した人々の誇りや気風は、町の文化そのものを形づくりました。技術を支える情熱、勤勉さ、助け合いの精神──これらは新津の人々の気質となり、現在でも秋葉区新津地区の雰囲気として残っています。
第4章|周辺地域とのつながり
亀田との商業・物流の結びつき
旧新津市が石油や鉄道で発展する一方、隣接する**旧亀田町(現・江南区亀田地区)**は古くから商業の町として栄えてきました。新津で採掘・精製された石油や関連資材は亀田を経由して新潟市中心部や周辺地域へと流通し、産業と商業が互いを補完し合う関係を築いていました。
横越との農業交流
旧横越町(現・江南区横越地区)は、市街地に近い広大な水田を擁する優良農地の広がる米どころとして発展してきました。横越の農産物は新津をはじめ周辺都市へ供給され、都市の生活を支える基盤となっていました。石油や鉄道による産業都市・新津と、農業地帯・横越は、まさに都市と農村の補完関係を形づくっていたのです。
五泉市との産業・文化交流
南東に位置する五泉市は、かつて絹織物の産地として栄え、戦後は「五泉ニット」へと大きく転換しました。現在でも婦人用セーターの生産額で国内トップクラスを誇り、全国に名を知られる繊維産業の町です。新津で働く人々は五泉の製品を日常的に利用し、鉄道を通じて五泉の産品が全国へ流通する際には新津が重要な拠点となりました。こうした交流は、産業と暮らしの両面で両地域を強く結びつけていたのです。
阿賀野・豊栄との広がり
北東の阿賀野市とは阿賀野川を介した流通や農産物の取引が盛んに行われてきました。また北に位置する**旧豊栄市(現・新潟市北区)**は米どころとして知られ、新津とは農業文化や生活習慣の面で共通性を持っていました。こうした広域的な交流により、新津は単なる独立した都市ではなく、新潟県内の経済・文化ネットワークの一角として発展していったのです。
第5章|まとめ──石油と鉄道が築いた町の誇り
二つの産業が形づくった新津
旧新津市は、石油産業と鉄道産業という二つの柱によって大きく成長した町でした。1917年には新津油田が年間約12万キロリットルという国内最大の産油量を記録し、日本の近代化を支えるエネルギー拠点となりました。一方で鉄道の拠点としても整備が進み、新津駅や機関区、車両工場を中心に「鉄道の町」としての誇りを刻み込みました。
暮らしに根づいた文化と気風
石油と鉄道がもたらした人口増加や社宅文化は、地域の生活を豊かにしました。駅前の商店街や公共施設の整備は町の利便性を高め、労働者の気風や助け合いの精神は新津らしい文化として根づきました。こうした営みは、新津が単なる産業都市ではなく、人々の暮らしと文化が息づく町であったことを示しています。
現在に続く新津の魅力
2005年に新潟市へ編入され、現在は秋葉区の中心地域となった新津ですが、「石油と鉄道の町」という歴史は今も地域の誇りとして受け継がれています。国の史跡・金津鉱場跡や石油の里公園、そして新津鉄道資料館などの文化資源は、訪れる人々にかつての繁栄を伝え続けています。新津の歩みは、新潟全体の発展を支えた物語であり、今も地域アイデンティティの核として輝き続けているのです。
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