オーギュスタン・ジャン・フレネルとは?“フレネル回折”と光の波動説を証明した男の物語

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▼当記事は光学の歴史⑤です。▼


✅ 導入|“光は波か粒か”──その論争に、決定的な“数式”で答えた男がいた


「光は波か、それとも粒か?」

この問いは、何世紀にもわたり物理学者たちを悩ませてきました。ニュートンの粒子説が支配的だった18世紀末、19世紀に入ってもなお、波動説は少数派。トマス・ヤングが示した干渉実験ですら、その影響力は限られていたのです。

そんな中、科学界の空気を一変させる“決定打”が登場します。

それが、フランスの物理学者**オーギュスタン・ジャン・フレネル(Augustin-Jean Fresnel)**でした。

彼は、光の回折や干渉を厳密な数学モデルで説明し、「波動説は正しい」と誰もが認めざるをえない状況を作り出します。とりわけ“ポワソンの斑点”と呼ばれる現象の予言と実証は、粒子説の権威を根底から揺るがすものでした。

この記事では、ヤングの実験を引き継ぎつつ、それを理論と実験の両面から補強したフレネルの仕事に光を当てながら、現代物理学にも続くその功績の本質を掘り下げていきます。


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第1章|ヤングの次に現れた“光の探究者”──フレネルの登場と時代背景


19世紀初頭、光の本質をめぐる論争は続いていました。ヤングの干渉実験が「光は波である」という可能性を示したとはいえ、それが直ちに受け入れられたわけではありません。科学界の主流は、いまだニュートンの粒子説に傾いていたのです。


フランス学界を支配していた“粒子派”の論調

当時のフランスでは、ラプラスやポワソンといった大物たちが粒子説を強く擁護しており、ヤングの波動説はまともに相手にされていませんでした。
干渉や回折といった現象は一部の実験好きの興味を引いただけで、理論的に主張できる体系とは見なされていなかったのです。


無名の技師、オーギュスタン・フレネルの登場

その空気を変えたのが、**オーギュスタン・ジャン・フレネル(Augustin-Jean Fresnel)**でした。彼は、物理学者でもなく大学教授でもなく、地方で橋や道路の工事に携わる無名の土木技師。しかし、自由時間のほとんどを「光の本質」を解き明かすための研究に費やしていたのです。

彼が本格的に光学研究に取り組み始めたのは1814年ごろ。ナポレオン戦争が終結し、フランスがようやく平穏を取り戻した時期でした。


最初は“誰にも読まれなかった”論文

フレネルは、独学でまとめた干渉と回折の理論をフランス学士院に投稿しますが、最初の論文は「読まれすらしなかった」とされています。
それでも彼はあきらめず、数式によって現象を説明する理論体系を粘り強く提出し続けます。

この時期のフレネルは、まさに「波動説の火を絶やさなかった男」。そして、ヤングの実験結果に**“理論的な骨組み”**を与える存在として、歴史にその名を刻むことになるのです。


第2章|人物像:オーギュスタン・ジャン・フレネルとは何者か?


フレネルの名は、今ではレンズや光学理論に数多く残されていますが、彼の人生は決して順風満帆ではありませんでした。天才としてもてはやされるどころか、生前のほとんどを無名の技師として過ごし、晩年になってようやく評価されるという遅咲きの科学者でした。


工学畑の人間だった──数学と構造に強い理系気質

1788年、フランス西部の小さな町で生まれたフレネルは、エリート教育機関であるエコール・ポリテクニークを卒業後、国の土木技師として橋や道路の設計・建設に従事していました。

もともと光学の専門家ではなく、「現場の技術屋」としてキャリアをスタートさせた彼にとって、光学はあくまで余暇の知的挑戦だったのです。

しかし、彼の強みはそこで培われた数学的思考と構造への鋭い直感にありました。光のような抽象的な現象にも、数式と理論で筋道を通すという姿勢が、のちの「波動理論の体系化」につながっていきます。


“天才”ではなく、“粘り強い実証者”だった

フレネルのスタイルは、ヤングのようなひらめき型とは正反対でした。
アイデアを一発で打ち上げるのではなく、現象を徹底的に分解し、数学的に積み上げていく──いわば職人的な積層型の理論家だったのです。

提出した論文が読まれなくても、審査に落とされても、彼は書き続けました。特に「フレネル回折理論」や「ホイヘンス=フレネルの原理」などは、そうした地道な努力の賜物であり、物理現象を“計算可能な現象”に変えるという意味で画期的な功績でした。


名声の確立は死の直前、そして死後に

ようやく彼の理論が注目され始めたのは、1820年代に入ってから。
特に「ポワソンの斑点」の実証により、波動説の正しさが否定しがたいものになったことで、ようやく彼の理論が受け入れられるようになります。

しかしその頃、フレネルはすでに体を病んでおり、1827年、わずか39歳でこの世を去ります。

死の直後、アカデミーは彼の功績を正式に認め、**「光の波動理論を確立した男」**として彼の名が歴史に刻まれることになりました。


第3章|ブレークスルーポイント:フレネルの回折理論と“ポワソンの驚き”


フレネルが歴史に名を刻むきっかけとなったのは、光の回折現象に対する驚くべき予測と、その実証でした。
この章では、彼の理論がいかにして**“粒子説の牙城”を崩す決定打**となったのかを、当時の逸話とともに紐解いていきます。


数式で導かれた「回折」の新たな解釈

回折とは、光が物体の端を回り込むように進む現象のこと。
ヤングの干渉実験では「2つの波の干渉」が示されましたが、フレネルはこれをさらに進めて、光が単一の障害物を通るだけでも干渉が生じることを理論的に説明しました。

ここで登場するのが、のちに「ホイヘンス=フレネルの原理」と呼ばれる考え方です。
彼は、あらゆる波面の点が“二次波”を発するというホイヘンスの理論をベースに、その波が干渉し合う様子を数学的にモデル化し、光の振幅分布を予測する計算式を提示しました。

この理論が初めて世に出たのは、1818年のフランス学士院の懸賞論文でした。


ポワソンの“反証”が、まさかの“証明”になった

この懸賞に応募されたフレネルの論文を読んだのが、シメオン・ドニ・ポワソン(Siméon Denis Poisson)。彼は熱心な粒子説の信奉者であり、フレネルの理論を徹底的に批判しようと考えました。

そこでポワソンは、「理論が正しいのなら、円形の物体の影の中心に、普通ならあり得ないはずの明るい点が見えるだろう。」と反論します。
──つまり、「理論が正しければ、おかしな現象が起こるはずだ」という否定の論理でした。

しかし、それを聞いた物理学者フランソワ・アラゴ(François Arago)は、実際に実験を行ってみたのです。
その結果──フレネルの理論通り、影の中心に明るい光点が実際に現れたのです。

これが、後に「ポワソンの斑点(Poisson’s spot)」または「アラゴスポット」と呼ばれる現象です。


粒子説では説明できない現象が、波動説で見事に説明された

この結果は、当時の科学者たちに大きな衝撃を与えます。
粒子説では到底理解できない現象が、波動説の理論が導いた数学的な予言どおりに現れたのです。

しかも、この予言は現象が奇妙であればあるほど説得力を増しました。
「意外すぎるのに、何度試しても再現できる」──それこそが科学理論にとって最大の説得力です。

この瞬間、フレネルの理論はもはや仮説ではなく、実験によって裏付けられた新しい光の理論として、科学界に受け入れられることになったのです。


第4章|原理をやさしく解説:フレネル回折とホイヘンス=フレネルの原理


フレネルの理論は難解だと思われがちですが、その根本は**「光は波として伝わる」というシンプルな考え方**に基づいています。
この章では、専門的になりがちな回折理論や波面の話を、できるだけやさしく、かつ正確に解説していきます。


ホイヘンスの「波面」理論が出発点

まず押さえておきたいのが、17世紀の物理学者ホイヘンスが提唱した**「波面理論」**です。

ホイヘンスは、「波は前に進むとき、波面上のすべての点が“新たな小さな波(=二次波)”の出発点になる」と考えました。
つまり、光が空間を進むとき、その前線(=波面)はたくさんのミニ波の集合として広がっていく、というイメージです。

このモデルは直感的ですが、欠点もありました。
なぜなら「どこが強く、どこが弱くなるか」という干渉の強弱や方向性を定量的に説明できなかったからです。


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フレネルが持ち込んだ“干渉と位相”の数理モデル

フレネルが登場したことで、この波面理論は新たな精密性を獲得します。

彼は、「それぞれの二次波がどんな“タイミング(位相)”で出て、どの方向に波が強まるか」を三角関数を使って数式化しました。

ここで重要なのが「位相(phase)」という概念です。
波は“山”と“谷”が繰り返される動きですが、同じタイミングで波が重なると強くなり(強め合い)、逆位相なら打ち消し合う(弱め合い)のです。

フレネルは、この干渉の加減を厳密に数値で記述できるようにしたことで、光の明暗や回折パターンの分布を計算可能にしました。


フレネル回折とフラウンホーファー回折の違い

フレネルの理論によって、光の回折には大きく分けて2つのタイプがあることが明らかになりました。

フレネル回折(近くで見る回折)
回折する物体のすぐ近くで光を見る場合に現れる現象です。
光は波として広がりながら進むため、物体の端を回り込んだり、波面が曲がったまま届いたりします。
このため、光がどう回り込むかを計算するときは、波の曲がり具合まで考える必要があります。

フラウンホーファー回折(遠くから見る回折)
観察する位置が十分に遠い場合、あるいはレンズで光を平らな波(平面波)に変えて観察する場合に現れます。
遠くでは光はほぼまっすぐに進むため、計算もシンプルで、縞模様のパターンもはっきりと見えます。
レーザーや光学実験でよく利用されるのはこちらです。

このように、近くで見るか、遠くで見るかで光の見え方や計算方法が変わる、という整理をフレネルが行ったことで、現代の光学やレーザー技術の基礎ができあがったのです。


現代にも通じる“光の計算理論”のはじまり

このように、ホイヘンスの直感を数式で具体化し、干渉のパターンを“計算できるもの”にしたのがフレネルの最大の功績です。

今日、光学設計・レンズ開発・分光器の設計において、光の振る舞いを予測・シミュレーションする際に、フレネルの数理モデルは不可欠な基盤として機能しています。


第5章|なぜフレネルの理論が受け入れられたのか?──実験と予言の力


ヤングの干渉実験が「光の波動性」を示したにもかかわらず、すぐには受け入れられなかったように、正しさ受容されることは必ずしも一致しません。
ではなぜ、フレネルの理論は学界に認められ、波動説が主流になったのでしょうか?

そこには、彼の理論に備わった決定的な2つの強みがありました。


① 「奇妙だが的中する予言」が、学者たちを納得させた

科学において強力なのは、直感に反するが再現可能な予言です。
フレネルの理論はまさにそれを体現していました。

とくに「ポワソンの斑点」の実証は象徴的です。
円形の障害物の“真後ろ”の暗いはずの中心に、明るい点が現れる──
そんな突飛な現象を数式から導き出し、実際に観測して見せたのです。

このとき、かたくなに粒子説を信じていた科学者たちも、「この現象だけは説明がつかない」と認めざるを得ませんでした。


② “数式で説明できる”からこそ理論としての強度があった

ヤングの理論は美しくも、まだ定量的には弱いものでした。
干渉縞の現象を説明することはできても、「どこが明るく、どこが暗くなるか」を厳密に予測するのは困難だったのです。

そこにフレネルは数式による記述と、実験との整合性を持ち込みました。

  • 波の干渉と強度分布

  • 回折のパターンと観察距離の関係

  • 光の振幅と位相差

こうした要素をすべて数式で扱える形に整えたことで、彼の理論は「単なる仮説」から、「科学的モデル」へと昇華したのです。


理論・予言・実証の三位一体が、波動説を主流にした

フレネルが成功したのは、ヤングの示した実験結果に、理論という“言語”を与えたからです。
そしてその理論が、さらに新たな予言を生み、それが実験で再現される──このループこそが、現代科学の核ともいえるプロセスです。

結果として、19世紀中頃にはフレネルの理論が広く採用され、「光は波である」という考えが初めて学術界で主流となったのです。


第6章|後世への影響:光学の世界に数学的精密性を持ち込んだ意義


オーギュスタン・フレネルの理論は、彼の死後も光学のあらゆる分野で活き続け、現代の科学・工学にまでつながる礎となりました。
この章では、彼がもたらした影響が、どのように未来の研究や技術に展開していったのかをひも解いていきます。


干渉計・分光器・レンズ──すべての設計にフレネル理論が組み込まれた

フレネルが定式化した回折と干渉の理論は、19世紀後半から20世紀の科学機器の精密化に大きく貢献しました。

たとえば:

  • マイケルソン干渉計(光の定規のようなもの)のような精密測定装置

  • 回折格子や分光器(光を色ごとにふるい分けるプリズムの進化版)

  • 薄膜の構造設計(光をコントロールする“透明な仕掛け板”)

  • 光学レンズの収差補正(ピントを極めて正確に合わせるための秘密調整)

これらはすべて、光の干渉と回折を数式で扱えることを前提に設計されています。
言い換えれば、フレネルがいなければ成り立たない分野が、科学技術の中核に存在しているのです。


電磁波理論やレーザー工学へと接続する“光の数理化”

後年、マクスウェルが「光は電磁波である」と示し、ヘルムホルツが視覚の生理学的解明を進めるなど、光に対する理解はさらに深化していきました。

しかしその基盤となったのは、やはり光を“連続する波”として扱うフレネル的な枠組みでした。

とくに現代のレーザー工学やホログラフィ、フォトニクス分野においても、フレネルの干渉理論・回折理論が解析の起点になっています。


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“光を測る科学”への第一歩を開いた功績

それまでの光学は、どちらかといえば経験的・感覚的な学問でした。

しかしフレネルは、光の振る舞いを**「数式で予測できる現象」へと変えた**。
このことが、「測れる」「制御できる」「設計できる」現代光学の扉を開いたのです。

今日の私たちがスマートフォンのカメラで鮮明な写真を撮れたり、CDやBlu-rayを精密に読み込めるのも、すべては**“光をコントロール可能にした”この一歩**に起因しています。


第7章|まとめ:光は波である──それを決定づけた“知の証明者”


オーギュスタン・ジャン・フレネルは、ヤングが提示した“現象のヒント”に、数理という骨格を与えた存在でした。
彼の仕事は、目の前に現れる光の不思議を、「説明できるもの」「予測できるもの」「設計できるもの」へと変えたのです。


実験の再現性 × 数式の整合性──科学が科学である条件を満たした

フレネルの理論が評価された理由は、単に理にかなっていたからではありません。

  • 奇妙だが正確な予言(ポワソンの斑点)

  • 数式による光強度の分布予測

  • 回折・干渉・偏光といった現象の統合的な理解

これらすべてが「再現できる」「他者が検証できる」という、科学としての条件を完璧に満たしていたことが、波動説を定着させる決定打となったのです。


「観察から理論へ」──光学は近代科学へと進化した

ヤングが“見せた”光の不思議を、フレネルは“証明した”。
この流れは、のちの物理学においても重要な基本構造になります。

観察から理論へ、理論から予測へ、予測から検証へ──
この「サイクル」が回り始めたのは、まさにフレネルが光に数学を持ち込んだ瞬間でした。

そして彼の理論のうえに、後続の科学者たち──マクスウェル、ヘルムホルツ、アインシュタインらが新たな世界を築いていくことになるのです。


“光の波動説”は、ここでようやく確立した

ニュートンが残した粒子説の影響は、100年以上にわたって続いていました。
ヤングが最初の亀裂を入れ、フレネルがその根元から揺るがしたことで、ようやく光は「波として扱われる存在」へと生まれ変わったのです。

彼は、光の正体を解き明かした科学者ではなく、**「知の正しさを証明した人」**でした。
だからこそフレネルの名は、現代の光学にも、数学にも、そしてレンズの表面にも、今なお静かに刻まれているのです。


🌊 コラム|灯台を変えた数学のレンズ──フレネルレンズの物語


19世紀のはじめ、夜の海を照らす灯台には深刻な問題がありました。
光はオイルランプやろうそくの炎から発せられますが、遠くの船に届く前にほとんどの光が空へ散ってしまうのです。
海難事故を防ぐためには、光を効率よく水平に集める仕組みが求められていました。


厚すぎて重すぎる「巨大レンズ」の限界

当時の解決策は単純でした。
「大きな凸レンズで光を集めればいい」。

しかし、直径1メートル級のガラスレンズは数百キロにもなる超重量物
設置は難しく、光の透過効率も悪く、現実的な方法とはいえませんでした。


フレネルの発想:「必要な部分だけ残す」

ここで登場するのが、光の波を数学で操る男──
オーギュスタン・ジャン・フレネルです。

フレネルはこう考えました。

厚くて重いレンズを丸ごと作るのではなく、
光を曲げるのに必要な部分だけを残せばいい。

こうして生まれたのが、フレネルレンズです。
レンズを同心円状に輪切りにして、段々に削ったような形をしています。
見た目はまるでガラスのピラミッドを横に重ねたようですが、
これが光をきれいに平行に集め、遠くまで届ける秘密でした。


灯台の光が世界を変えた

1820年代、フランスの灯台に初めてフレネルレンズが導入されました。
すると、これまで届かなかった光がはるか沖まで届くようになり、夜の航海の安全性は劇的に向上します。

その後、フレネルレンズは世界中の灯台に採用され、
海を渡る無数の船の命を守る存在となりました。


現代にも生き続けるフレネルレンズ

フレネルレンズの優れた性質は、灯台だけにとどまりません。
今日では、

  • 車のヘッドライト(薄くて軽いレンズで光を前方に集める)

  • プロジェクター(光を効率よく拡散・集束)

  • 太陽光発電の集光装置(光を一点に集めて発電効率を上げる)

など、身近な場所でも活躍しています。


光学理論という抽象的な数学の成果が、
灯台の光として海を守り、今なお私たちの生活を支えている
これこそ、フレネルが残した「光を操る技術」の象徴といえるでしょう。


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