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第1章|ニエプスとは?──写真の“はじまり”を築いた発明家
写真を生んだのは、ダゲールではなくニエプスだった
今日、「写真の発明者」といえばダゲールの名前が広く知られています。しかし、実際に世界で最初の写真を生み出した人物は、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスというフランスの発明家でした。彼は「ダゲレオタイプ」よりも10年以上も早く、光によって像を固定する技術を完成させています。
ダゲールの登場によって埋もれてしまったその功績は、20世紀以降の写真史研究によってようやく明るみに出ることになりました。
本名ジョセフ・ニセフォール・ニエプス、フランスの発明家
ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)は、1765年3月7日、フランス東部ブルゴーニュ地方のシャロン・シュル・ソーヌ(Chalon-sur-Saône)で生まれました。フルネームはジョセフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Niépce)ですが、一般的には姓である「ニエプス」と呼ばれることが多い人物です。
彼は専門的な化学者や物理学者ではなく、独学で技術研究を行った発明家でした。
若い頃は軍務や行政職に就きながら、兄クロード・ニエプスとともに発明活動を続けており、内燃機関「ピレオロフォール」の開発など多方面で技術開発に取り組んでいました。
写真の原理を最初に実証した人物──再評価されるニエプスの功績
ニエプスが目指していたのは、「絵を描かずに景色そのものを写し取る」という技術でした。
当時すでにカメラ・オブスクラという装置は知られており、外の景色をレンズを通して映し出すことは可能でしたが、その映像をどうやって定着させるかは誰にもわかっていませんでした。
ニエプスは独自の研究を重ね、光で固まる特殊な物質(ユダヤビチューメン)を発見します。
これを使って、世界で初めてカメラ・オブスクラの像を物理的に板に固定することに成功したのです。
この革新的な技術は、のちに**「ヘリオグラフィ(heliography)」と名付けられ、
彼が撮影した写真は、「人類が初めて撮影に成功した写真」**として現在に伝えられています。
▶併せて読みたい記事 ■カメラ・オブスクラとは?2000年かけて“光”が写真になるまで──カメラの原点をやさしく解説
第2章|世界最古の写真「ル・グラの窓からの眺め」
1820年代、自宅2階から撮影された「人類初の写真」
現存する世界最古の写真は、「ル・グラの窓からの眺め(View from the Window at Le Gras)」という作品です。撮影者はもちろん、ジョセフ・ニセフォール・ニエプス本人。場所はフランス・ブルゴーニュ地方にあるサン=ルー=ド=ヴァランジェの自宅2階にあった窓辺でした。
この写真には、納屋の屋根や煙突、石造りの壁といった風景がぼんやりと写し出されています。
これは**人類史上初めて「光によって固定された風景」**であり、最初の写真として公式に認められています。
撮影されたのは1826年頃。正確な日付は記録に残っていませんが、現在でもその金属板はアメリカ・テキサス大学ハリー・ランサム・センターに大切に保存されています。
使用したのは「カメラ・オブスクラ」と独自の化学技術
ニエプスが世界最古の写真を撮影するために使ったのは、カメラ・オブスクラ(camera obscura)という装置でした。これは箱型の装置で、レンズから入った光を内部の壁に映し出す仕組みです。すでに16世紀頃から画家たちの補助器具として知られていましたが、当時は「像を映し出すだけ」で、その像を残す手段は存在していませんでした。
そこでニエプスは、光によって固まる特殊な物質を用いるという独自の方法を考案します。彼が選んだのは、ユダヤビチューメン(bitumen of Judea)と呼ばれる天然の瀝青(れきせい)でした。この物質は日光に当たると硬化して溶けにくくなる性質がありました。
ニエプスはこの瀝青をピューター(金属板)に塗り、カメラ・オブスクラで外の景色を長時間露光させます。光が当たった部分は硬化して板に残り、光の当たらなかった部分はラベンダー油などの溶剤で洗い落とされます。こうして、明るい部分と暗い部分が分かれた“ポジ画像”が金属板に現れる仕組みです。
この技術によって、ニエプスは人類で初めて「光で像を定着させる」という発明に成功しました。それは絵画や版画とは根本的に異なる、“写真”という新しい表現技術の誕生でした。
現在も現存し、テキサス大学のハリー・ランサム・センターに所蔵
この貴重な写真は、現在アメリカ・テキサス大学オースティン校にあるハリー・ランサム・センター(Harry Ransom Center)に所蔵されています。写真はおよそ16×20センチほどのピューター(錫合金)の板に記録されており、肉眼では非常に見えにくいため、斜めから光を当てることで屋根や建物の形が浮かび上がる仕組みです。
1952年には、写真史研究者であるヘルムート・ガーンスハイム(Helmut Gernsheim)夫妻によって再発見され、「世界最古の写真」として広く知られるようになりました。それ以降、この写真は写真技術の原点として世界中の研究者やアーティストたちから注目され続けています。
第3章|ヘリオグラフィとは?──ニエプスが編み出した写真の仕組み
光を使って“絵を描く”という発想
ニエプスの発明した**「ヘリオグラフィ(heliography)」**とは、ギリシャ語で「太陽(helios)の描写(graphein)」という意味を持つ言葉です。これはまさに、光によって画像を定着させる技術そのものであり、後の写真術の原点となりました。
彼は長年にわたり、「カメラ・オブスクラで見える像を、どうにかして紙や板に焼き付けられないか」という問いに取り組んでいました。その試行錯誤のなかで行き着いたのが、光に反応して性質が変化する天然物質の活用という方法です。
仕組みの核心は、光に反応して“固まる”物質
ニエプスが使ったのは、ユダヤビチューメン(bitumen of Judea)と呼ばれる天然の瀝青(れきせい)です。これはアスファルトの一種で、日光に長時間さらされると固くなって水や油に溶けなくなるという特性を持っています。
この性質を利用し、光が当たった部分だけを板の表面に残し、それ以外を溶剤で洗い流すことで、「画像」として定着させることに成功したのです。
ニエプスの撮影手順(工程をわかりやすく紹介)
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**金属板(ピューター=錫合金)**にユダヤビチューメンを溶かして塗布する
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完全に乾燥させた後、カメラ・オブスクラにセットして風景を投影
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露光時間は8時間以上かかることもあり、日光の動きに影響されやすかった
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撮影後、ラベンダー油や白ガソリンで未硬化部分を洗い落とす
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最終的に、固まった部分だけが板に残り、**明暗のある“陽画”**が出現する
この工程によって、ニエプスは初めて「自動的に像を定着させる技術」を完成させました。
評価と限界──なぜ広まらなかったのか?
ヘリオグラフィは、たしかに画期的な技術でした。しかし、同時に実用性には大きな課題を抱えていました。最大の難点は、露光時間が非常に長かったことです。晴天の日でも数時間、天候によってはそれ以上かかることも珍しくなく、安定した再現が困難でした。
また、像の明瞭さや階調表現も限られており、「写真」としての用途にはまだ粗削りな段階だったのです。
それでも、「光で画像を得る」という原理を初めて成し遂げたという点で、ニエプスの功績は揺るぎないものです。彼の技術は後のダゲレオタイプや湿板写真、印刷技術にいたるまで、すべての出発点として語り継がれています。
第4章|写真の主役交代──なぜニエプスの名は埋もれたのか?
ニエプスが協力を求めた相手は、舞台装飾家ルイ・ダゲールだった
ニエプスが初めて「写真」を完成させたあとも、技術には課題が残っていました。露光時間の長さや画質の不安定さなど、改良すべき点が多く、彼は単独での限界を感じていました。そこで協力を求めたのが、当時パリでディオラマ劇場を運営していた舞台美術家、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールです。
1829年、ふたりは共同研究契約を結び、ニエプスが開発した「ヘリオグラフィ」に、ダゲールの知見を加えて技術改良を進めることになりました。この契約書の実物は、現在もフランス国立図書館に保存されています。
しかし、完成を見る前にニエプスはこの世を去る
ニエプスは1833年に急死します。完成まで至らなかった技術、そして未解決の課題を残したまま、その生涯を終えました。彼の死によって、ふたりの共同研究は終焉を迎えます。
しかしその後、ダゲールは彼なりの方法で感光材料を改良し、新たな写真技術「ダゲレオタイプ」を完成させます。1839年、ダゲールはフランス政府の支援を得て、学士院にて写真技術を発表。これが、世界で初めて「公に認められた写真術」となりました。
「写真の発明者=ダゲール」として記録されてしまった理由
ダゲールの成功は、技術力というよりも、発信力と政治的手腕によるところが大きいと言われています。彼はフランス政府と交渉を重ね、発表と同時に国家による買い上げを実現。これにより、写真術は「フランスが人類に与えた無償の贈り物」として全世界に公開されることになりました。
一方で、その発表のなかに、ニエプスの名はごくわずかにしか登場しませんでした。事実上、写真の発明者としての名誉はすべてダゲールに与えられてしまったのです。
ニエプスが残した技術を土台にしているにもかかわらず、ダゲールが単独で完成させたように伝わってしまった背景には、当時の政治、報道、そして特許制度の未整備といった複雑な事情が絡んでいました。
技術の源流としてのニエプスが忘れられていった
こうして、写真という革新技術の誕生において、最初の一歩を踏み出したニエプスの名は、長らく歴史から消えていくことになります。
彼の開発した「ヘリオグラフィ」は複雑で扱いにくく、ダゲレオタイプのようにすぐには普及しなかったため、技術としても注目されにくかったのです。
しかし、ダゲールが写真の「広報者」だったとすれば、ニエプスは間違いなく**写真の「発明者」**でした。その静かな功績が埋もれてしまったことは、写真史における最大の不公平のひとつとされています。
▶併せて読みたい記事 ダゲレオタイプとは?|ルイ・ダゲールの発明から仕組み・印刷との関係・日本と映画まで解説
第5章|ニエプス再発見──20世紀に再評価された功績
写真史研究の進展により、最古の写真の出所が明らかに
ニエプスの名前は、ダゲールの名声に隠れて長らく歴史から忘れられていました。しかし20世紀に入り、写真史の研究が進む中で、「ダゲレオタイプよりも古い写真が存在する」という証言が、学術界で注目を集め始めます。
決定的な転機が訪れたのは1952年。イギリスの写真史研究者**ヘルムート・ガーンスハイム(Helmut Gernsheim)**夫妻が、ニエプスが撮影した「ル・グラの窓からの眺め」の原板を再発見したのです。
この写真が世界最古の現存作品であることが検証されたことで、ニエプスはふたたび歴史の表舞台へと呼び戻されました。
「最初に光を定着させた」のは間違いなくニエプスだった
ダゲールの技術は実用的で、社会に広まるスピードは圧倒的でした。けれども、**「誰が最初に写真の原理を完成させたのか?」**という問いに対する答えは、もはや明白です。
カメラ・オブスクラの映像を、化学的に定着させた人物。それが、ニエプスです。露光時間が長くても、仕組みが複雑でも、「最初に写した」という歴史的事実が揺らぐことはありません。
特に、ガーンスハイムによる研究と、アメリカ・テキサス大学ハリー・ランサム・センターでの保存活動は、ニエプスの名誉回復に大きな役割を果たしました。
現在では、ダゲールと並ぶ“もう一人の発明者”として評価されている
21世紀の今では、ニエプスの評価は確立されたものとなっています。欧米の写真史教育においては、「写真の発明者はニエプスとダゲールの両名である」とする見解が主流であり、**“写真のはじまりには、二人の名前がある”**という捉え方が一般化しています。
また、ニエプスの開発した技術的思想──光の硬化反応を使うという発想──は、のちのフォトポリマー印刷技術や半導体露光技術にも通じる原理としても注目されています。
つまりニエプスの功績は、「写真を生んだ人」だけでなく、「光と化学を使った画像処理の先駆者」としても評価されているのです。
最終章|まとめ:ニエプスが私たちに残したもの──「写す」という革命
「記録」や「複製」という概念を根底から変えた発明
ニエプスが生み出した「ヘリオグラフィ」は、単なる技術ではありませんでした。
それは、人類が初めて「見るだけだった像を、“残す”ことに成功した瞬間」であり、絵画とも印刷とも違う、新しい視覚の時代の幕開けでした。
この一歩によって、記録することは人の手による再現ではなく、光そのものが風景を記憶するという新しい考え方に変わったのです。風景も建物も、一度きりの瞬間さえも、「撮る」のではなく「写す」ことで、未来へ伝えられるようになりました。
もしこの発明がなければ、写真も映画も、現代の印刷技術やデジタル画像文化も、まったく違う形になっていたことでしょう。
名を知られずとも、最初の一歩は彼の手によるものだった
ニエプスは、生前大きな名声を得たわけではありません。
当時の記録には、彼が名声や富を追い求めたという証拠は残されていません。
ただ、自宅で地道に実験を重ね、やがて世界最初の像を生み出したことは、歴史が証明しています。
その技術は未完成でも、再現性が低くても、彼が切り拓いた道は確かに世界を変えました。
風景を、自分の手で写し取る──ニエプスが最初に実現したこの「写す」という行為は、今も私たちの生活の一部となっています。
写真の原点に立ち返るとき、ニエプスの静かな情熱が見えてくる
現代の私たちは、スマートフォン一つで簡単に写真を撮り、無数の画像を記録できる時代に生きています。
しかし、その技術のはじまりにいたのは、巨大な装置と金属板を前に、「どうにかこの像を残したい」と願った、ひとりの発明家でした。
彼が追い求めたのは、「この世界を、そのまま写し取ること」。それは誰よりも純粋な問いだったのかもしれません。
ニエプスという名前はあまり知られていないかもしれません。
けれど、私たちがシャッターを切るたび、その奥にはきっと、ニエプスの視線と情熱が今も宿っているのです。
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